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第五福竜丸公開資料
県原水協事務局長である白井春樹さんから「第五福竜丸にかかわる県の公文書はないだろうかと 相談を受けました。 そこで、農林水産部の関係部で探してくれ資料を情報公開請求しました。 最初の一覧表は、情報公開請求の一覧です。 公開されたものは、マイクロソフトにはいっていたものからとったもので、見づらいものです。 いつか、研究者の方が、役に立ててくれればと思います。 2015年9月 雑賀 光夫 #
by kainanrekisi
| 2015-09-30 14:16
一九七〇年代から八〇年代へ
和教組運動の発展・個人的覚書 雑賀光夫(和教組副委員長 当時) この覚書は、どこに発表するともなくワープロに打ち込んでいたものである。 海草の教育サークルの機関誌を出せとせついたり、そこへ載せてみようと岩尾靖弘先生の遺稿を打ち込んだりしているうちに、ふと、陽の目をみせたくなった。 最初の執筆は、一九八九年頃、田淵史郎和教組委員長(当時)に、二人で自費出版で「私史・和教組」を出しませんかと冗談みたいに言ったことがある。田淵先生は「金だけだそうか。おまえ書けよ。」というようなことを言っていた。 1、七四春闘の全一日ストライキ 日教組は、一九六〇年代、「人事院勧告完全実施」を要求して、秋の閣議決定・給与法国会山場で「ストライキを含む統一行動」を実施していた。しかし、一九七〇年、人事院勧告四月実施は定着したとして「本格春闘参加」として、春闘にストライキで参加するようになった。春闘相場をひきあげるたたかいに参加しないと人事院勧告を引き上げることはできないという趣旨のものである。 七三春闘は、二〇、一%の賃上げ(人事院勧告・加重平均一四、四九三円)七四春闘は、三二、九%(人勧・同三一、一四四円)。執行部も組合員も意気高かった。執行部は、「本格的ストライキは、三日も四日もぶちぬくものだ。半日や一日のストなんて、ミニミニストだ。」と職場オルグではあじっていた。 高度経済成長の最終の時期、田中角栄の日本列島改造論にあおられた狂乱物価で国民の怒りが爆発したこと、七二年の衆議院選挙では、和歌山から野間・井上共産党議員の誕生など共産党・社会党ともに前進し、革新統一の気運がたかまった時期でもあった。さらに、全逓中郵判決など、公務員ストについても「刑事罰からの解放は勝ちとれた。」という判断もあった。 そのなかで、七四ストライキ直前、和教組本部は、各支部に対し、「刑事弾圧の動きがある。警戒せよ。」という趣旨の連絡を下ろしていた。この情報は、日教組よりも共産党が機敏につかみ、日教組にも和教組にも、連絡してくれたようである。全国的には、この警告に無関心だったところもあったろうし、弾圧をさけるために、一定の戦術ダウン(傾斜的)を実施した県もあった。和教組執行部は、「弾圧の危険を軽視しないが、圧倒的な組合員の突入で弾圧をゆるさないたたかいを組む。」とした。 七四ストライキ(四月十一日)は、圧倒的な組合員の参加でたたかわれた。和歌山市支部は、ボーリング場で集会を開いた。海草支部は、市民会館で集会を開き、途中で映画会をし、市内一蹴のデモ行進で市民に訴えるという具合である。しかし、スト参加者がオルグとなり、地域の署名行動や労働組合訪問をするという発想は、まだ生まれていなかった。一九八〇年代の和教組の水準であれば、そうしていたであろうが。それでも、こどもの安全と保護をめぐって、父母との話し合いがおこなわれた。海草郡野上小学校では、PTA会長が「こどもを登校させないように」よびかけた。この地域は、勤評闘争の時、組合員が父母に「ストに参加するな」と缶詰にされた地域である。 こうした、たたかいの高揚、革新統一の前進の裏で、政府・自民党は、反動的巻返しを準備していた。最高裁判所判事の入れ替えによる司法反動化により、前年の四月にだされた判決は、これまでの到達点をくつがえすものであった。さらに重要な問題は、田中自民党内閣が、教育問題を政治の争点に据えていたということである。田中内閣は道徳教育を強調した。のちにロッキード事件で逮捕されたとき、「あの田中に、道徳を云々する資格があったのか」と語られたものだが・・・。さらに、「教師の月給を二倍にします。」と銘うった「人材確保法案」である。「一般公務員より多少は待遇をよくする。(二倍など真っ赤な嘘)そのかわり、教師は聖職に撤してもらわなくてはならない。」というのが、その趣旨であった。その年の七月の参議院選挙に向けて、大々的なキャンペーンが展開されていた。 2、「教師・教育論」の問題提起 「共産党もラッチモナイこという。」四月十七日の午後、海草支部書記局に入ってきた田伏道男支部長は、吐き捨てるように言って、汚いソファーに腰を落とした。その日の赤旗に「教師聖職論について」という「主張」が載せられたのである。内容のくわしい紹介は省略するが、「教師聖職論を批判する場合、機械的に労働者論を対置して、精神的・文化的な教師仕事の専門性・特殊性を軽視しては、国民の支持を得られない。」という警告であった。ここから、「教師とは何か」「教育労働運動はどうあるべきか」をめぐる「教師・教育論」の討論がはじまる。 ここで、「共産党が労働組合運動に介入」という宣伝をする論者に、申し上げておかなくてはならない。「教師・教育論」は、共産党が、火をつけたというわけではない。最初に、「教師聖職論」を、国民的争点に押上たのは、先に延べた田中角栄であった。このとき、公明党は、「使命職」という新語を作り出した。社会党は、支持団体である日教組の「教師は労働者である。」を無条件に支持していた。しかし、このことが国民的争点になると、機械的に「労働者だ。」と言っていただけでは国民の支持が得られないという重大な情勢が生み出されていた。そこでの共産党の問題提起であった。和教組執行委員会でも、職場でも、大討論がおこった。 のちに和教組書記長をつとめた雑賀は、こんなことを語った事がある。「七四年の教師・教育論」の重要さが、身に染みて分かったのは、七七・七八年の和歌山市での『ストライキ参加者氏名公表問題』の時でした。日教組ばりのスト万能論を和教組が採用していたら、あの時、和歌山市支部は壊滅的な打撃を受けていたでしょう。」(・・・年定期大会議案参照) その年、七月の和歌山市長選挙で、富士原前和教組委員長(七四年四月から北又委員長に交代)が、和教組や労働組合・民主勢力の総力をあげた奮闘にもかかわらす大差でやぶれる。そして、そのあと、和教組定期大会が開催された。大会で、和歌山市長選挙を総括した玉置代議員は、「わたしたちは、父母との団結と口にはしてきた。しかし、選挙であれだけの奮闘にもかかわらず大差で破れた。父母と本当に結びついていたのかどうか考えてみる必要がある。」と、選挙結果から、「教師・教育論」を深めることを訴えた。 大会で、おもしろいやりとりがあった。ある婦人の代議員(中村悦子さんではなかったろうか)が、質問した。「大会議案の『教師は労働者であるとともに教育の専門家である。』というところ、ことばとしては分かりますが、もう少し具体的に説明してください。」当時の書記長・田淵史郎が、待ってましたとばかり二〇分近くかけた答弁をした。たいていの質問は、この程度の大答弁があれば納まるのが、和教組の悪しき伝統である。しかし、その婦人代議員はなおも食い下がった。「丁寧なご説明ですこし分かったようですが、まだストンときません。」そこで、北又委員長が登場した。「皆さん、磁石というものがあるでしょう。磁石には、プラスとマイナスがありますが、切っても切れない関係にあります。プラスなしにマイナスはない。教師の労働者性と専門性もそういう関係です。」それで、その場はおさまった。 その後日談の方が重要である。その年の日教組大会は、東京の立川市でひらかれた。槙枝日教組委員長の「ことばを正確につかう共産党が、聖職などということをいう意図は奈辺にあるのか・・」というあいさつで始まった大会は、「教師・教育論」をめぐるヤジと怒号の大会となった。この大会のロビーで、北又は、傍聴参加の雑賀にふともらした。「わしの和教組大会での答弁は、理論的に間違いがあるようだ。おまえ考えてみてくれ。」 雑賀は、のちに学習会で、このやりとりを紹介して解説した。「磁石は、プラスが5であればマイナスも5です。しかし、教師の労働者性と専門性とは、そんな関係にありません。『ストは絶対イヤ』という先生でも、教師としての力量を持った人はいる。たとえ、非組合員でもそこからは学ぶべきです。教師のふたつの側面は、磁石のプラス・マイナスと違って、独自性を持っているのです。教職員組合運動は、それを独自の課題として追求しなくてはなりません。では、全く関係ないのか。教師としての専門性を高めることを抜きにして、教師の生活を守るたたかいも国民の支持を得られるはずがありません。どんなにすぐれた教育技術を持っていても、教育の軍国主義化が進められるなかでは、その教育的力量が教え子を戦場にかりだすために使われるということになります。独自の課題として追求したものが大きく合流するというのが私たちがめざす和教組運動です。」 北又・雑賀は、ともに学習協で労働学校の講師などよく務めた、いわば「親分・子分」の関係にあった。北又は、「猿が人間になる」という話で「うちの書記長(雑賀)は、箸をまともに持てない。あれは猿に退化しかけているのだ。」と言ってよく笑わせていた。雑賀は、「北又委員長のマチガイ答弁」を全国に言い触らして歩いた。雑賀は、当時の執行部の人たちをつかまえて、あの北又マチガイ答弁を覚えているかと聞いたことがあるが、よく覚えていたのは、当の北又委員長だけで、大答弁をした田淵書記長(当時)も、記憶になかったようである。 「教師・教育論」で、実践的に問題になったひとつは、当時社会問題になった「落ちこぼれ(こぼし)問題」であった。「教育研究所」が、「一年生で一割り、二年生で二割り、・・・六年生で六割りの勉強についていけない子がいる。」と発表してセンセーションを呼んだ。「勉強の遅れた子には、放課後残してでも教える。」ということがいいのかどうか、執行委員会でも論議された。日教組大会では、そういうことも含めた「学力回復」の努力が報告されると、「補習の復活か」とヤジが飛んだ。槙枝日教組委員長が、そうした学力回復の努力を大会あいさつで訴えたのは、数年あとのことである。 #
by kainanrekisi
| 2015-09-25 14:12
3、「スト参加者氏名公表問題」
和歌山市の稲垣教育長は、タカ派としてならしていた。 稲垣教育長は、市教組との団体交渉に、PTA役員を同席させたことがある。労働組合とのやりあいを「有力者」父母に聞かせれば、自分の方に有利になるという判断に基づくものであろう。なんという浅薄な教育長であろうか。たとえば、校長が教師に対して言いたいことがあるとする。(私は組合役員であるが、若い先生に対して「あなたはそれでも教育者なのか。」と言いたい気持ちになることがある。だから、和教組は、「体罰」問題をはじめとして、現場で物議をかもすような問題提起もあえておこなってきた。)その校長が、現場教師に言いたいことを父母・部外者同席のもとで言うだろうか。外部からの不満は、校長が自分で受け止め、教育の条理に基づき教師と教育論をたたかわせるのがすぐれた校長であろう。 一九八八年の夏のことである。和歌山市役所の前に「スト参加者氏名公表」というベニヤ板を張り合わせた看板がはりだされた。看板をたてたのは、右翼団体であり、二回目の看板が立てられる前に、看板屋のおやじが教組に連絡してくれたので、どこの看板屋にだれが注文したのかまで明らかになった。 はじめは「中学校の部」で、数日おくれて「小学校の部」であったろうか。その逆であったろうか。いくつかの「赤マル」がついていた。「赤○は共産党員です。」「赤○」は、五つぐらいついていただろうか。共産党県委員会の岩城正男労対部長は、それをみて頭にきた。「ばかにするな。市教組の共産党は、その何十倍もある・・・・」 和教組・市教組は、ただちに抗議行動を組んだ。スト参加者氏名は正確である。市教委が右翼に情報を渡したことは明白であった。和教組本部・市教組執行部合同の対策本部が作られた。支部は、太田支部長・堀井書記長など執行部、本部からは、田淵副委員長・雑賀書記長などが張りついた。 このとき、組織された教育対話集会は、和歌山市で勤評闘争以後企画された最大の対話集会運動であろう。各組合から、役員の地域別名簿が集められた。教育共闘が組織され、その事務局長には、地区労の藤原事務局長があたった。経済センター十階で、教育対話集会を準備する会議が二百人規模で開かれた。その企画は、堀井・雑賀によるものだった。全体の意志統一の後、中学校区別にわかれて打ち合せがつづいた。その後いくつかの地域で対話集会が重ねられることになる。この対話集会にも妨害が加えられた。市が、公民館など公共施設を貸さないという暴挙を行なったのである。のちに市教組書記長をつとめた川島(のちに分裂組織・日教組和歌山の委員長にかつがれる)は、当時、中学校の職場にいたが、市教委がいったん貸した会場の使用許可を取り消したため、急遽、市教組に会場を変更し、参加の父母を車でピストン輸送したという。 稲垣教育長は、PTAを利用しようと役員会を開いた。当時、最も民主的に運営されていたPTAの一つに、今福小学校PTAがあった。その会長の吉田教育庁職組委員長のメモで、わたしたちは、教育委員会がPTAをどう利用しようとしているのかを知ることができた。市教組は、PTA会員宛ての手紙の郵送をおこなった。手紙の作成には、田淵副委員長があたった。 たたかいは全国的にも注目され、共産党・社会党とも全国規模で調査団を送りこんだし、市教育会館でひらかれた支援集会は、地区労の人たちで溢れるばかりになった。本州化学闘争の直後である。県地評・地区労でも連帯・相互支援の気運はつよかった。日教組との関係では、闘争資金を出してもらおうと、北又・雑賀が日教組で田中書記次長に会い、支援を要請する。三役応接室というような部屋に初めて入った。三〇〇万円ばかり出してくれたのではなかっただろうか。 合同法律事務所には、大変お世話になった。最初は、「氏名公表看板」撤去の「仮処分」である。みごとに仮処分が認められた集会で、岡本弁護士は、「不利益の損害賠償要求を」とアジッた。その延長線上で「不利益訴訟」(稲垣教育長の告訴・告発)となる。最初に警察で意見をのべたのは、岩城史先生であったと記憶している。勤評闘争でも岩城史先生は証人として裁判所で意見陳述をしたことがあるが、こうした土壇場で勇気とねばりを見せたのは婦人の先生方であった。 ただし、この「告訴・告発」は、のちに足並みのの乱れも起こり、代表者による「告訴・告発」に切り替える。そして、「市教組・市教委の関係正常化」の覚え書きを交わして取り下げたのではなかっただろうか。(正確な資料は揃っているはずなので、時間ができればしらべたい) 労働組合の戦術上の問題として総括しておけば、この、スト参加者全員による告訴・告発という戦術は、戦列を横並びに組んでいたという問題を持っていた。 たたかいというものは、つねに戦列を菱形に組むというのが原則である。つまり、先進層・中間層・遅れた層の存在を前提として、先進層が前に出て遅れた層をかばいながら全体を団結させなくてはならない。スト参加者は、組合員の中では「先進層」ではあるが、権力を一人一人が告訴告発するたたかいに直面するとき、そこには、三つの層がやはり存在する。ひとりひとりが告訴告発するという戦術は「一線横並びの戦線構築」という問題を含んでいた。(こういう総括は、和教組としてはしていない。雑賀の個人見解である。) そういう問題を含みつつも、多数による「告訴・告発」は、大きな力になった。「氏名公表」は、一九七八・七九・八〇年まで三回つづくが、最後の「氏名公表」のときには、稲垣教育長は、市助役となり、石垣教育長が就任していた。稲垣の助役昇格は、形式的には昇格であるが、これ以上教育長をさせておいては教育界が混乱するばかりだという市長部局の政治判断が働いたものであろう。三回目の氏名公表で抗議を受けた石垣教育長は、困惑の表情を示した。その後、市教組と市教委の間は、正常化にむかった。 二、ストライキを含む多様 な戦術 「教師・教育論」の論議をふまえた新しい方針をふまえた実践は、多岐にわたる。前章での「おちこぼし・学力補充問題」がそうであり、同和教育の新しい方針も、広い意味でその一環であった。ここでは、労働組合の闘争戦術の面から、振り返ってみよう。 (1)教育対話集会の提起 教育対話集会のとりくみは、古くて新しい。教育労働運動が父母の支持を得られないかぎり無力である以上、くりかえしとりくまれてきた。勤評闘争しかり、教育臨調反対闘争しかりである。「講師・教育論」を踏まえた和教組運動がこの課題をとりあげたのは当然である。「教師・教育論」というのは、教育問題が国民的争点になったことの反映である以上、なおさらである。 一九八五年のこと、数人の父母が、海草支部書記局をたずねてきた。隣の日方小学校の父母で、「学校へ言いにくいことを聞いてほしい。」という。対応した田伏支部長は、「教育委員会とまちがえて入ってきたのではないか。」と思ったという。こうしたことに現われた教育への期待と不満を教職員組合が組織して自らのとりくみをすすめるのか、反動勢力が組織するのかが問われていたと言えよう。 和教組は、全県的に教育対話集会を提起した。とりくみは一様ではなかったが、一つの職場からの報告を紹介しよう。 「支部の方針にそって、対話集会をやろうということになり、PTAの会長に話にいきました。そこで、えらい文句を言われました。『先生らまえにわしらが地区懇談会をやりたいと言うた時に、勤務時間の問題があるからと断ったやないか』という問題です。ひとしきり文句を言われたんですが、『そいでも、こんど先生からこんな話を持ちかけてくれてうれしいんやよ』と言って協力してくれました」 野上中学校の職場の報告である。 こうしたとりくみの上にたって「海南海草こどものしあわせを守る会」(会長・打井清一郎)が結成される。 (2)職場を基礎に・・・分会執行部の確立 「多様な戦術」といっても「対話集会」といっても、労働組合運動の基礎は職場の団結にあることは言うまでもない。分会執行部の確立が課題とされたのは一九八七~八年のことであった。「分会には、校長と対等の立場に立つ分会長と日常的の分会活動の運営にあたる分会書記長を置く。年間固定の分会執行部を確立する。」ということが強調された。 日高支部は、僻地校も多く、小さい分会が多い。そんな場合はどうするのかという質問がでた。川村日高支部書記長は、「分会執行部確立の方針は、徹底して貫くんだ。」と頑張った。「一人の分会でも、この方針は貫きます。その場合、分会長・分会書記長兼任ということになります。」 こういう議論をしたという報告が執行委員会でなされたとき、執行委員は笑ってしまったけれども、この徹底した態度は、日高支部の分会体制確立の数字を大きく引き上げるものであった。 (3)「私と職場の要求運動」 分会体制の確立に魂をいれるとりくみが「私と職場の要求運動」である。一九七七年秋、和歌山県地評(議長・北又安二)常任幹事会で、木戸副議長が「わたしの要求運動」を提案する。和教組は、積極的にとりくもうとするが、すぐにはうまくいかなかった。一九八八年の定期大会の「当面の闘争」で「私と職場の要求運動」が提起される。職場で集約した要求を「対政府要求」「対県要求」「支部・地区で解決するもの」「職場で解決するもの」に整理してとりくみをすすめるというものである。 徐々に要求集約がはじまった。当時、こうしたとりくみは、奈良県教組で前進しており奈教組の大会方針は研究させてもらった。同時に、全国的にも千代田総行動・御堂筋総行動・函館総行動・東村山総行動などが華やかに取り組まれていた。書記長の雑賀は「労働運動」誌を引っ繰り返して総行動のという記事を斜め読みにした。そのころ、学習協と統一戦線支持組合が、大阪の労働組合幹部をむかえて、「御堂筋総行動」の経験を学ぶ学習会を開いたことがある。雑賀のその時の感想。「総行動というのは、自らの要求で取り組むものだから、たとえ雨が降っても頑張るほどの元気があるんだ、という話をきいたが、どうしたらそういう運動を組織できるのかが良く分からなかった。」 この問題について、その後の和教組の運動を総括して雑賀は、「結局は、具体的な要求をどれだけ汲み上げるかが問題だ。具体的な要求が明確になったとき職場組合員から驚くような創意性がうまれる。」とまとめている。 (4)「地区総行動の手引き」と「固有名詞のついた要 求」 要求集約はすすみはじめた。しかし、一九八八年度末の執行委員会で取り組みの総括したとき雑賀は唖然とした。集約した要求にもとづく地教委交渉に取り組んだ地区が清水町などいくつかあったが、その数は十指に満たなかったのである。そこから、「要求に責任を持つ地区・支部執行部」という課題が鮮明になる。「地区総行動」が・・・の大会議案にとりあげられた。 「地区総行動の手引き」は、その運動の産物である。一九八〇年 月 日、執行委員会のある日の朝、雑賀は、六時前に目を覚ました。「地区総行動の手引き」の構想が浮かんだ。ザラ紙三枚に、書き殴ったものが出来た。書記局に出勤すると、西山嵩子副委員長に「これをみてくれる?」とまわし、西山が、要求の具体例をいくつか書込、山本書記に清書してもらった。この「手引き」は、今でこそ活字になっているが一年以上の間、山本書記のそう上手でもない手書きの印刷物のまま、なんどもファックスにかけて使われた懐かしいものである。 そのころの執行委員会で、西牟婁支部の北条書記長が報告をした。「西牟婁に小さい学校で、母親から『小学一年生のこどもに、土曜日の帰りにパンとミルクを飲ませて帰してほしい』という要求がだされ、職場で話しあって解決しました。」その子は、山の上の家から通学している子であった。執行委員会は、そういう具体的な要求が職場で解決され、しかも執行委員会で報告荒さるということを高く評価した。日高から、おもしろい報告があった。「ある学校で、運動場の真ん中を、お百姓の人が車で通るのです。運動場を買収したとき、そこに農道があったので、通行権があるのです。教育委員会交渉で、農道を別につけさせて解決しました。」 有田の新山書記長の報告。「今年は教育委員会と交渉すると様子が違う。要求が具体的なものだからほおっておけなくて、教育長が学校を回ってきた。要求書を手にし、職員にメジャー(巻尺)を持たして。」 要求アンケートは、職場から地域に広がった。最初に、要求を総まとめした刷子をつくって配ったのは、那賀の田野書記長であったが、堀口書記長は、一人で三人の父母から要求アンケートを集める運動を提起した。組合員は、運動会で学校にきている父母をつかまえるなどして、アンケート集めた。日高支部では、春闘の統一行動で集会のあと地域に入りで、アンケートを集める取組をした。 話は前後するが、「地域要求アンケト」のきっかけをつくったのは、伊都・かつらぎ総行動である。組織率の低い伊都で、なんとか迫力のある運動をと西岡副支部長らは考えていた。解連の役員でもあった西岡は、教組・解連・新婦人など共同で「地域要求」を集約し対町交渉にとりくむことを考えた。書きやすいように「○をつけて下さい」式のアンケートの最後に「その外、何かありましたらお書きください。」という欄に、どっさり要求がかかれていたのでびっくりしたという。いちばん多い要求は「ゴミの回収」の問題であった。対町交渉には、教組の組合員の数よりも多い参加者があったという。このとりくみを聞きつけた日高支部の書記長から、本部に電話があった。「伊都でアンケートやったらしいやないか。そのアンケート送ってくれ。」「まだ本部ももろてないのや。」「なにしてるんな。頼りにならん本部やなあ。そんなら伊都から直接おくってもらうわ。」まだTELファックスのなかったころのことである。(日高の書記長は本部に対してこんなぞんざいな口のききかたをしたわけではない。しかし、私は、支部の創意性を汲み上げて広げる上での自分の感度の悪さを痛感したので、こんな具合に「作文」してみた。) (4)日教組の画一的ストライキのおしつけに反対して 機械的労働者論の立場をとる日教組は、画一的ストライキ戦術に固執していた。一九七三年、東京都教組は、ストライキにあたってこどもの安全と保護にあたる「保護要員問題」を提起していたが、それを日教組指導部は、「スト破り」と決めつけていた。一九七四年からの「教師・教育論」論争からは、画一スト反対のわたしたちの立場を「教師聖職論・スト回避論」ときめつけ、厳しい避難の声をあびせた。しかし、その反面で日教組主流派県もふくめ、スト突入県と脱落県、同じ県内でも突入組合員と脱落組合員は固定化し、突入率は低下していた。九州各県などの組織率低下は著しく、さらに救援資金はふくれあがり、年間百数十億円という膨大な負担になっていった。いまこそ、教職員の特性を生かし、全組合員のたたかうエネルギーを引き出す戦術が求められていた。 和教組は、一九八五年の春闘から、「画一スト反対・ストライキを含む多様な戦術でたたかう」という方針で日教組中央委員会や戦術会議にのぞんだ。それが否決され画一戦術が決定されたときは、批准投票でも組合員の前に「反対」の立場を明確にし、批准結果は一〇%台にとどまった。和教組が提起する「授業に食い込まない午後三時以降の戦術」については、八〇%台の高率批准を成功させていた。 このころのストライキ闘争の記録を調べてみると「おやっ」と思うことにぶつかる。東京・大阪・京都などの各県は早朝授業食い込みストに参加しているのに、和歌山が脱落しているケースが二件あることである。中央での「統一派」(のちの「ありかた懇」)の会議の結論を雑賀がとりちがえてきたものであった。その一つは、「四〇人学級問題など定数改善」の一九・・年一二月のスト。もう一つは、翌年春闘での退職手当改悪反対ストである。 退職手当反対ストについて、雑賀は、日教組戦術会議で次のように主張した。 「画一ストには、各県の状況によっては、今回のように賛成できないことがおこります。第一に、その県の組合員の多数が突入して団結を強められる戦術かどうかの問題です。第二は、そのたたかいが、父母・県民の理解を得られるようにするための教育運動などをどこまで広げているかの問題があります。さらに第三に、各県内の政治状況のちがいがあります。和歌山のような保守県と東京・大阪・京都のような革新自治体が最近までつづいてきた地域で必ずしも同一戦術はとれません。和教組執行委員会は、和歌山の組織に責任を持つものとして、この戦術には賛成しませんでした。」 「スト万能論者」からは、はげしいヤジ。どこからも弁護発言なしにこの会議は終わった。しかし、そのあとの統一派の会議で、「退職手当問題での第二波ストに、突入するということでいいのだろうか。」との議論がされた。中央執行委員の湯浅は、「雑賀氏が会議で発言したことは、ほぼ正当なのではないか。」とのべ、第二波スト批准にあたっては、統一派各県は、「画一スト反対」の立場をとった。雑賀は、ほっと胸をなでおろした。 画一スト反対は、「ストつぶし」ではない。労働者としての要求実現への決意を示すたたかいを、国民要求実現のたたかいと結ぶとりくみの探求である。日高のスト集会と住民アンケートの結合は、その一つの試みであった。もっと一般的に行なわれたのは、ビラ宣伝である。スト当日のビラということではないが、「うちの子、学校でついていけるのかしら」というビラが一九八五年ごろに、翌年は「ぼくにも分かるまでおしえて」というビラが出されている。(情宣担当・松本公忠書記次長。ビラ作成に当たって松本は、現場の意見を聞くために海草支部書記局にきて、同僚の市原と雑賀が協力したもの)機関誌協会の岡本卓氏によれば、「えらい勇気を出して作ったビラやなあ。」と機関誌協会で話題になったという。こうした、二〇万以上のビラを全県に配布する方法もあるが、もう一つ、地域ごとにビラを作成するという方針がとられた。一九八〇年ごろのストライキにあわせて、地区(班)ごとにビラをつくることが提起された。このとき和歌山市の活動家・玉置が、雑賀に言った。「本部はいろいろ思いついたことをいうてくるが、現場の活動家が自信なくすようなことをしたらいかん。ビラようつくらんと困ってるやないか。」よく似たことが那賀支部の亀田書記長が言ったことがある。本部で片面作り、裏面は支部で作るようにしたとき那賀で一度だけ、裏面白紙で配ったことがあるようだ。「裏面ようつくらんで白紙のまままかせるなどというのは惨めな気持ちになる。」と。 「よく読まれるビラとは何か、それは自分たちの具体的な要求を取り上げたビラだ。要求を羅列しただけでも立派なびらになる。」こうした議論を経て、スト当日配布されたビラの種類は三二種類におよんだ。 北山村でまかれたビラをみて、村長は頭にきたという。「村の道路を直してください」と書いている。それは、村長がかねてやりたかったことだった。それを教組にビラにされてしまうと、村長が教組にいわれてやったことになるではないか。村長は村内の全部の校長とPTA会長を呼び集めた。 のちに、このことが和教組執行委員会に東牟婁支部書記長から報告された。「・・・・・ビラをつくるのにも配慮がいる、という論議をしました。」その報告に対して「その総括はおかしい。」という意見がでた。「この問題から学ぶべき教訓は何か。第一にも、第二にも『具体的な要求を書いたビラは、町長をビリビリさせるほどの威力がある』ということではないか。そのことを五回ぐらい強調した後で『配慮』というようなことも少しは言ってもいいが・・・」 (5)「封書ビラ作戦」と「統一労組懇の全県縦断行動」 (6)和教組執行部の手からあふれる多様な取り組みと「高度な指導性」の探求 (未完) #
by kainanrekisi
| 2015-09-25 14:00
県地評の「再生」に寄せて
岩城正男 (注)25年間ほど私の手元にあった原稿である。 1990年ごろ、岩城先生が書いてくださったもの。読みづらい文字は、「伏字」になっている。 岩城先生は他界され、埋めようもない。 ご本人が発表前に推敲することのできなかった論考であることをお断りしておく。 原稿の後半には、岩城先生ご自身の書き加えがある。後日、子の書き加えを好かるべき場所に入れて、より完全な原稿にするつもりでいる。 2015年 9月 雑賀 光夫 一、はじめに 和歌山県地評は一九五二年四月二十一日に結成されている。その前年の九月八日サンフランシスコに於いて屈辱的な平和条約」と日米安保条約が締結され、日本国民の悲願であった平和、中立への道が断ち切られる。そして、県地評結成大 会の日から一週間後の四月二十八日この二つの条約が発効する。 現県地評議長田淵史郎氏は「県地評三十年のあゆみ」の中で次のように述べている。「我が県地評の結成大会(一九五二年)には『再軍備反対』のスローガンがかかげられていました。『北朝鮮の武力侵略反対』のスローガンをかかげ、アメリカの朝鮮侵略戦争を事実上支持した総評結成大会(一九五〇年)とは大きく違っていた事がうかがえます。これは和歌山県地評の結成が『平和四原則』を採択し、『ニワトリからアヒル』へ転換した総評第二回大会の翌年であった事の反映でしょうか。 《平和四原則=全面講和、軍事基地反対、中立堅持、再軍備反対》 結成後、四十年近い歳月を経て、いま、和歌山県地評は階級的ナショナルセンターの重要な一翼を担い、県下の労働者 と県民の要求と期待にこたえるローカルセンターとして「再生」の歩みを踏み出している。 以下は私の素描であるが、県地評の誕生とその後の歩みの中から戦後和歌山の労働者階級が残した遺産をふりかえってみたい。 二、県地評結成前後の教訓 日本の労働者を天皇への忠誠と侵略戦争に総動員させた「産業報国会」は一九四五年九月三〇日に解散した。同月アメリカ占領軍が和歌山に進駐する。労働者の生活と権利を守る労働組合結成の全国的な波の中で県下では敗戦二年後の一九四七年末には二九七組合、五四六一六人に達している。 県地評結成に先だって、戦後紀南における木材産業労働者の組織化をはじめとして官公労、民間の産業別組織化が進む一方四六年初頭から四七年へかけて紀南労協をはじめとして日高、和歌山市へと地区労が結成されていくこととなる。 戦後、全くゼロから出発して手探りで労働組合を結成していく過程は、故山本正治氏(和大名誉教授)の名著「和歌山 県民主主義運動史覚え書」や和教組東牟婁支部四十年史など一読するだけで先人たちの労苦と喜びを偲ぶことができる。 県地評第四回大会(一九五五年)の議案には「未組織労働者の組織化」の項に「去る四月十八日、和歌山市内の零細企 業の小労評が確立され、この問題に真剣に取り組んでおり・・・」という記述がある。県地評に加盟して活動するこの小労評」(和歌山県小企業労働組合評議会)の構成メンバーとして活躍した組織に和歌山建具労組がある。この組織の元委 員長であった、今は亡き沖実蔵氏は朝鮮戦争の直後から建具・木工産業の労働者の組織化のために文字どおりその生活をなげうって取り組み、模索し、挫折しつつも遂に団結の旗をうちたてていった人であるが、結成時の県地評をこのような活動家たちが支えていた事を忘れてはなるまい。(語りつぐ労働運動「建具労組の誕生と闘い」) 【二・一ストの共闘】 一九四六年の秋から暮れへかけて産別会議に結集する国鉄、全逓をはじめ官公労働者を中心に国民生活の危機突破をめ ざして二・一ゼネストが準備される。県下では一九四七年一月初旬「和歌山県官公労働組合協議会」が結成され、中央に 呼応して共同闘争委員会を確立する。 民商では全日通(最賃制確立、越年手当などを要求)や和歌山電軌労組をはじめ県下私鉄労組が参加する「県交通労働 組合」らが官公労働者と歩調をあわせ二・一スト突入体制を固めた。 このとき当時民間労組の結集体であった「和歌山地区労働組合連盟」〈これは扶桑金属=現住友金属、三菱金属、花王石鹸、東燃らが「政党色を排して統一無雑の労働組合連合体」をめざし前年の一九四六年六月結成(二三労組、六六三七名)〉も官公労働者のゼネストを支持して次の声明を発している。「今何のために全官公労働者がゼネストを断行しつつあるや。彼らとて再建途上の責務は充分に知★して居る限り、何を好んで再建を阻むゼネストを断行なさんや。★して動 物生活以下の飢餓賃金によっては到底その責務の貫徹を期す事能わず。ここにおいて彼らは政府に対し、数項目にわたる 血の叫びの要求を提出せり。しかるに政府は何等策を講ずることなく、誠意を示さずついに今回の事態に立ち★りたるは 正に政府の責任なり。ここにおいて和歌山地区労働組合連盟は全面的に彼らの闘争に対し支持する事をここに声明する。」 (一九四七・一・三〇) これより先、日本共産党和歌山地方委員会は次の支持声明を発している。「亡国吉田政府の虐政のもとに生死の境にま で追いつめられた労働者階級の必死の生活権利防衛闘争のために、やむにやまれず★★反撃の先頭にたって英雄的闘争を つづける国鉄、全逓、教員、官公庁の諸君・・・。我が党は・・・諸君が我が民族の★亡と生産★★の歴史的民族的使命 を担って奮闘する闘争形態であるゼネストを絶対支持し、その先頭にたって闘争する事を声明する。」(一九四七・一・ 一三) 県交通労働組合に結集した県下の中小私鉄労働組合はやがて県地評、地区労へ加盟して行くが県地評結成を前後する時期に賃上げ、解雇反対、職場民主化などを要求して全県的に連帯した創意的で果敢なストライキを毎年のようにくりひろげている。(上野寿雄氏「交通労働者の回想」・語り継ぐ労働運動参照) 二・一ストはアメリカ占領軍によって禁止されるが、県下の労働者階級による戦後★の共同闘争の大きな遺産といえよう。 【平和を守る闘い】 アメリカ帝国主義によって日本をアジアにおける反共の砦とするため急速に進められたサンフランシスコ単独講和に反対し「全面講和・中立」を要求する闘い。さらに日米安保条約にもとづく県内での基地反対闘争が県地評結成前後から五〇年代初頭に闘われる。 前県地評議長、故北又安二氏は県下の労働者が「平和の灯をかかげて闘った」時期を振り返り次のように語っている。 「一九五〇年トルーマン米大統領が朝鮮戦争で負けがこんできたために“原爆を使う”と言い出し、私たちはストックホルムアピールの署名活動に取り組みました。この署名は世界中で四億近く集まりトルーマンを思いとどまらせる力になりました。また、和歌山市で開かれた平和集会にも田上久信さん(元共産党県委員会副委員長・故人)らと参加しましたが小松原通りあたりのお寺の★へ座ったトタンに警官隊に囲まれて怒号の中でアッという間に解散させられた事もありました。平和運動への第一歩でした。 翌一九五一年には対日講和条約と安保条約が調印されましたが「国を売りにいく吉田(首相)をアメリカへやるな」などのステッカーを夜の夜中に貼りまわったこともなつかしい思い出です。」 (和歌山民報社編「語り継ぐ労働運動」より) これに先立つ一九四九年八月十九日、松川事件では物情騒然たる中、和教組の青年教師達は全面講和を要求する「平和問題講演会」を和歌山市・修徳高校で開き(平和問題談話会の知識人を呼んで、和教組教育部主催)成功させた。引き続き第二回講演会を翌五〇年に西牟婁で朝鮮戦争勃発直後に開催している。米軍占領下での全面講和要求行動であり、平和教育の記念碑の一つであろう。 三、県地評の結成と その階級的成長 平和闘争・勤評・安保 県地評の結成大会後の議案を読んでみて改めて感ずる事は「平和擁護闘争」のしめる重さである。結成大会のスローガンの第一は田淵議長の指摘のように「再軍備反対」であり、結成直後の第二十三回メーデーの中心スローガンも「再軍備反対・民族の独立を闘いとれ・低賃金を統一要求で打破」とつづいている。 二年後の第三回大会(一九五四年)をみても第一に「平和を守る闘い」があげられており、「生活を守り、民主主義を 守る闘争のすべてが平和を守る闘いである」と言い切っている。 (「賃金闘争」からはじまって、「平和擁護闘争」が最後に記述されるという議案構成になってくるのは一九五六年の第五回大会頃からである) 平和・中立の道を妨げた「単独講和」や旧「安保条約」締結による日米軍事同盟に対する、労働者の怒りと平和への大きさを改めて感じるものである。 一九五一年、西牟婁郡串本町・旧大島の大森山頂(海抜一七二メートル)の(旧)日本海軍電採基地あとに、米軍レーダー基地計画が表面化し、村民の反対運動がおこった。安保条約に反対し、平和を守る課題にこの翌年結成された県地評にとっての大きな闘争課題となり、大島軍事基地反対闘争(一九五三年)の取り組みが始まっていく。この闘争はやがて一九六〇年の安保反対闘争へ、さらに新安保にもとづく美浜自衛隊基地反対闘争へと発展していく。 一九五四年(第三回定期大会開催の年)の八月八日、和歌山県原水協が結成され、県地評もこれに参加し、県地評主催「平和祭」を行った。(八月十七日)翌1955年原水爆禁止第一回県民大会(五〇〇〇人)の成功のために貢献する。以後、核戦争阻止、核兵器全面禁止、被爆者擁護の課題を掲げられていく。 【勤評反対闘争から安保闘争へ】 一九五〇年代後半から六〇年代へかけて県地評は歴史的な共闘組織の結成と民主勢力の共同闘争に大きな役割を果たしていく。 「勤評反対七者共闘会議」(一九五八年五月一二日)、ついで「民主主義擁護・警職法反対県民会議」(共・社両党を含む県下で始めての共闘組織のスタート一九五八年十月二十二日)。そして、一九五九年二月の「県春闘共闘」の結成ののちの八月二十七日「安保★★阻止和歌山県民会議」の結成に参加し、生活と 平和を守る闘いを結合して行くのである。 県地評の民主教育を守る共同闘争はすでに一九五六年の教育二法反対闘争から始まっている。勤評反対闘争で和教組・高教組らの★★闘争に呼応する職場内外の決起大会、臨時列車「どんぐり号」を出して闘った国鉄労働者の生産点での闘い(中平喜★氏「国鉄職場の勤評闘争」(語り継ぐ労働運動所収)。さらに教育現場での苦難の闘争を支えた県地評加盟労組による「居住地会議」などの教訓が第七回大会(一九五八年八月)の方針に明らかにされている。「勤評反対七者共闘」につづく戦前の「おい、こら警察」復活に反対する「民主主義擁護・警職法反対共闘会議」は、中央では共産党を排 除してつくられたが、和歌山県下では共・社両党を含む共闘組織として結成された。 「勤評反対七者共闘」と「警職法反対共闘」の成果の上に、「安保改訂阻止和歌山県民会議」が結成されていく。勤評闘争から警職法闘争へ、さらに安保闘争への参加は県地評にとって共産党を含む民主勢力との共同闘争をとおして レッドパージ以後の社会党一党支持から共・社両党支持への質的変化をとげ、革新政党との協力共同、政党支持問題に最初の大きな変化をつくりあげていく事となる。 なお、勤評闘争にあたって県地評が組織した居住地での闘いと居住者会議の活動の先駆としては、六四年和歌山市で高垣市長の汚職を追及し、共・社・県地評・和地区労を含めた運動であった。 【安保改訂反対闘争】 安保条約第五条を中心にして日米軍事同盟の★★強化をねらった安保条約の改訂に反対する闘争は一九五九年から約一年半にわたって闘われた。安保改訂阻止国民会議のもと、二十三次の統一行動、三回に及ぶ全国的統一ストライキを闘いぬき二千余の地域共闘組織を確立した。 安保改訂阻止和歌山県民会議は一九五九年八月二十七日、共・社・県地評を含む民主勢力で結成し、町村段階の共闘を含め四十の地域共闘を組織した。(伊都・橋本、那賀、和市、海南・海草、有田郡市、御坊・日高、田辺・西牟婁、新宮・東牟婁 一九六〇年六月二十六日現在) ※町村では竜神村、白浜町、中辺路町、湯浅町、岩出 町、吉備町、貴志川町など 職場では★★鉱山、国労東和歌山で職場行動隊や社宅で共闘組織がつくられた。 共闘の署名は一月で一万余、二月末には二一九六〇人から、三月には六七一一七人、四月八二八八三名、五月一三五〇八七人と飛躍的に拡大し、七月末には二十数万を越えている。(最終集約数は不明) 県下の安保反対闘争は、中央国民会議の第五次統一行動までは共産党、原水協、県地評の独自活動が中心となり、県民会議の発足後に初めて第六次統一行動(一九五九年末)から共同闘争を展開していく。これは一九五九年六月段階で共産党県委員会が社会党と県地評へ共闘会議の組織化を申し入れ、県地評も自ら県民会議結成の努力をしたが社会党県連(代表田中織之進氏)が「独自に闘いをすすめ必要なときに共闘を組めばよい」と共闘を避けたこと。また民労協(民間産業労働組合協議会、後の全労会議・・・同盟)が「共産勢力と共闘できない。社会党が共産党と手を切ったら共闘にはいる。政治闘争は社会党の責任で労働組合は協力だけ。」という理由で参加を拒否した。 県民会議結成直後の第六次、第七次段階から全県的統一行動が提起され、批准阻止の署名・ビラ宣伝、県民大会などが行われていく。一九五九年暮(第七次~八次統一行動)は一九六七年一月の岸首相渡米阻止にむけ闘いが集中される。 県地評傘下の住金労組大会でのスト権集約では賛成が九四八、反対九四三(白紙一一七)で、ストライキの決行はできなかったがやがて六月の一ヶ月間に三回にわたって敢行されて全国統一ストライキを闘う労働者階級のエネルギーと政治的高まりをこのスト権集約にも感ずることができる。 一九六〇年二月二十五日~三月十八日、「安保改訂阻止、生活と権利を守る国民大行進」が行われるが、和歌山市での 結団式には全県下十二の水系を行進した代表が結集する。教組は勤評反対と結合して各学校単位でこの行進に参加して闘っている。 二月、県母親大会実行委員会が共闘会議に参加し、三月八日の国際婦人デーに安保反対を掲げた初めての「婦人デモ」が組織された。五月二十日、安保改訂阻止・和歌山文化人会議が結成され、六月三日和大教授団が反対声明を出す。 和歌山勤労者音楽協議会(労音)の「民主主義を無視した岸内閣に対して、即時内閣総辞職と国会解散を要求します。」という声明に(六月二十日)対し、労音例会参加者の回答者は二〇八〇人、このうち声明に賛成一六七三人(八〇%)(反対四〇二人)が意志表明している。 県立盲学校では、予算要求街頭署名に生徒も教職員と共にたち、生徒と教師の話し合いで翌日から安保反対★★と結合して署名行動を前進させている。 六月十八日の和歌山市での共闘の決起集会(三〇〇〇人)には一〇〇名の高校生の隊列がみられる。 このような盛り上がりと職場の下部の力が結合し、六月段階に至って関西電力労組、全繊同盟ら全労会議も安保共闘に参加していく事となる。 【安保県共闘のその後】 一九六〇年八月、県民会議の恒常的体制確立によって★★をはかり全県代表者会議を開くが、住金、全逓の社会党に籍 を置く幹部の否定的態度・・・「安保廃棄まで闘うための共闘は必要ない」「恒常組織としての★★★は実行できない」 によってついに保留となり、単産加盟から県地評一括加盟へと後退した。(県民会議は結成時の県地評一括加盟から闘争 の前進の中で、各単組加盟となっていた。) 総選挙(一九六〇年十一月・第二九回)後、開店休業状態の共闘組織は「物価値上げ反対、失業と貧乏をなくす県民大★★は」や「国鉄運賃値上げ反対共闘会議」結成などの中で活動を再開。名称を「安保体制打破・和歌山県民会議」と改めた。有田・日高の共闘会議は活動再開の先頭をきり、★共闘とも自衛隊誘致反対闘争を基礎に組織をさらに強化・発展させていく。ともに「平和と民主主義を守る共闘会議」(平民生共闘」と改称する。 一九六一年二月から約一年間、日高平民生共闘と安保体制打破県民会議は美浜自衛隊基地建設のための煙樹が浜松切り 反対闘争を地元、農漁民と共に闘っていく。(語り継ぐ労働運動山田幹雄氏「煙樹が浜の松切り反対運動」)新安保条約締結、最初の全県的統一行動の展開である。 この時期、安保反対闘争とともに闘われ、独占資本のすさまじい「合理化」攻撃に直面した三池炭坑労働者の闘争は、安保共闘に結集する民主勢力の支援をうけて闘ったが、県地評は一九六〇年七月~十月下旬迄の間、のべ二〇〇名を現地へ動員し共闘している。また、この時期、安保反対と結合した生活擁護の闘争では県安保共闘結成数ヶ月後の一九五九年十二月一日~十八日、本宮を出発し、和歌山市に至る「平和と生活を守る県民大行進」(県地評と県関係★者共闘の★★)行進者冨永智文氏(和高教)(語り継ぐ労働運動)があり、また、安保闘争と結合した公務員労働者の賃金闘争(県地評連絡会ニュース・田淵史郎議長の「公務員共闘から『いのくら』へ」等の教訓がある。 全自運田辺運送支部は安保闘争の年、まさにその前夜の一九五九年の一月二日結成され、西牟婁地評に結集して安保闘争を闘いつつ階級的自覚を高め、一九六二年の春闘で労組は全自運の産業別統一闘争に参加していく。(語り継ぐ・・・ 所収、故井上仁平氏「トラックに立った勝利の★」) 一九六一年九月二十六日文部省は新安保にもとづく人づくり政策と独占資本の要求にこたえる全国一斉「学力テスト」を強行する。このとき和高教が拠点として闘った吉備高校での「学テ反対闘争」で、出動してきた武装警官数十名の★★ の中で、この反対闘争を最後まで支え共に闘った吉備町をはじめとする有田地域の安保共闘会議の闘いがあった事も忘れ てはなるまい。(語り継ぐ労働運動の歴史) 四、一九六〇年代 県下労働運動右傾化の危機 (1) 六〇年代における和歌山県下の労働運動は右傾化の危機に直面する。(大きく二つの側面から) 一つは六〇年安保以後、日米支配層によってなされたケネディライシャワー路線と呼ばれる、親米・反共の潮流の育成であり、安保を闘った統一の力の破壊である。二つ目は自民党県政と住友金属など県下独占資本による右傾化と分裂である。 勤評・安保を闘った和教組、和高教への弾圧と組織破壊、並びに七者共闘に結集した力の破壊。「会社派幹部・インフォーマル組織」の育成による労組の支配(住友の五月会など)労働者の政治革新のエネルギーをつぶし、革新統一を破壊するための工作=県地評からの住金・県職などの脱退などである。 その☆☆をあらかじめ五〇年代に☆ってみると全国的にはアメリカ占領軍と資本の結託による総評の育成と産別会議の破壊であるが、レッドパージ以後和歌山県内に現れたのは国政選挙における「社会党支持」である。 二・一ストを闘った主力和歌山県全官公共闘会議は一九五〇年六月の第二回参院選にあたってこの参院選に(全面講和か単独講和かをめぐって争われた)日本共産党から立候補していた全官公共闘会議の議長・茂野喬氏を排除して、社会党の永井順一郎氏推薦決定をした。(この会議=当時の二・一ストを闘った労組による選対会議には住友金属「扶桑金属」ら民商の代表も参加している) 戦後の労働運動における共産党の活動と労働組合組織化の貢献から、それまではどの労組でも共・社両党を革新の代表として迎えていたが、この時点から選挙戦における「社会党一党支持」がスタートする。これが結成後の県地評に持ち込まれる。 「県地評三〇年の歩み」には結成の年の九月二日「県地評幹事会、総選挙(十月)で支持政党は社会党左派と決定」とある。 たとえば勤評闘争について★★なまとめを行った一九五六年の(第七回大会)の「選挙闘争方針」を見ても「候補者推薦の手紙」として「労働組合もしくは階級政党の確認並びに誓約書を添付して文書で和歌山地評中央選対委員会へ提出しなければならない。」とした上、県地評の外局として「推薦★★と★★な連携のもとに日常業務を遂行するため」の「政治局」を設け、推薦議★はすべて政治局員としての任務を持つ」・・・などを方針化しており、「社会党支持」の上に政党の候補者自体が県地評の指導下に置かれる・・などの誤った方針を決定している。 このような県地評における「社会党支持」という、スタートにおける後退はやがて勤評闘争から安保闘争への共闘を通して克服され、「共・社両党支持」の時代を迎えていく。これが再びケネディ・ライシャワー路線に基づく★★★★のもとで、社会党の右傾化と結んで県地評の右傾化へつながり、一九六三年の第十三回大会で「社会党一党支持」へ逆戻りしていく事になる。 五〇年代からの右傾化の系統として、いま一つは★★の「民労協」の結成にみられる県民間産業労働組合協議会は一九五七年(六月)に結成されている。関電労組、全繊同盟らで結成される。 これは一九五四年「左翼労働組合主義との対決」を★じるとした反共・労使協調の全組織=「全労会議」(のち、 一九六二年同盟会議、六四年同盟)の結成に対応して県内で組織され、県同盟の潮流を形成(六五年)やがて、県地評からの住金、県職の脱退(六七年)によって作られた「県労懇」(六七年)とともに合流し、七二年「県労連」を形成。八〇年日米軍事同盟★★の社公合意と社会党の右転落とともに県地評内に「総評路線と★★」の旗を掲げる「平和労組会議」(社会党一党支持)が生まれ、やがて右の潮流と共に「連合」を形成していく事となる。 #
by kainanrekisi
| 2015-09-25 13:36
「県地評」再生によせて 2
(3)和歌山県下でのケネディ・ライシャワー路線のあらわれは社会党県本部が原水禁運動への「部分核停支持押しつけ」に失敗して「原水協」から離脱し、(一九六三年)原水禁県民会議を発足させ(一九六五年)原水禁運動の分裂を固定化させる。安保反対県民会議の活動家ら離脱し、県安保共闘の機能を停止させる。これらの問題が県地評にもちこまれるとともに一九六三年社会党一党支持修正案可決。 【修正案をめぐる状況】 安保闘争後の一九六一年の大会では「政治活動を強化しよう」の次に、次の方針がある。「政治闘争は革新政党が全面にたち労働組合が★★★国民運動の中核となって闘う姿勢が正しい。しかし、現在それらの革新政党は私たちの期待するほど強力なものでないから私たちはそれぞれの信ずる政党に入党し、革新政党を強化する。」 二年後の一九六三年第十三回大会の県地評大会原案は次のとおりであった。「私たちは思想や信条を異にして経済的要求に基づいて団結している。労働組合組織を強く認識し、厳にその人権の保障を確立するとともに、政治活動を強化し、私たちの要求達成のための革新政党と協力して闘う。」 この原案に対して住金、南海電鉄、全日通、本州化学ら九組合共同で次の「修正案」(一読もっともでありつつ奇怪な結論をもつ『修正案』が提案されたのである。) 私たちは思想や信条を異にして経済的な要求に基づいて団結している労働組合であることを認識しながら政治活動を強化し、私たちの要求達成のために革新政党と協力して闘う。基本的には組合が機関での政党支持と組合員の政党支持自由の原則との関係は正しく認識して組合員の政治活動の自由は保障しておかねばならないところである。具体的には和歌山の県地評としては日本社会党を支持し、適宜の問題毎にその他の革新政党と★★協力していくこととする。 まことに奇妙な修正案であり、とから社会党一党支持は理論上からとうてい出てきよもないものであるが修正案は反対四一、賛成五一で可決される。 また政党支持問題をめぐって「紀南労協」「西牟婁地評」が分裂し、(一九六四年)社会党一党支持の「紀南地評」「西牟婁地区労」が譲歩する。 一九六三年の第十三回大会以後「社会党一党支持」方針を打破、政党支持自由の旗を掲げる闘いは県地評に明ける中心的課題となり、一九七〇年の第二十回定期大会において社共両党との共同関係の確立と政党支持の自由の方針の闘いにいたる。 県地評において政党支持自由を確立した力は統一戦線に結集する労組のねばり強い妥協なき闘い。一九六九年における和歌山地区労大会での「社会党一党支持方針」から「社共両党支持」方針の修正案採決の勝利。さらに県下市町村段階を含む地区労組織、当時二十一のうち社会党一党支持方針は、西牟婁、紀南、和歌山の三地区のみという状況がこれを全県的に確立していく力となったといえよう。 県地評内における政党支持確立採決の状況 × 一九六九年 二票差で修正案否決 ○ 七〇年 政党支持自由確立(+一三票差) ○ 七一年 〃 (+一〇票差) ○ 七二年 〃 (+二八票差) ○ 七三年 〃 (+二〇票差) 以後採決がなく政党支持自由方針を可決。一九七四年の第二四回大会で★★右傾化によって政党支持問題が棚上げされるまでつづく。 (つづく) (4) 自民党県政と住金ら独占資本による労働戦線右傾化 と分裂工作、右翼的潮流の育成 自民党小野県政は池田内閣の「高度成長政策」にこたえ、住金、東燃、丸善、関電、らへの大企業奉仕の政策「北中部臨海工業地帯」造成・開発のため道路、港湾、団地、工業用水などの産業基盤整備のために、県と自治体財政をつぎこむ「長期総合計画」(第一期一九六三年~六九)を強行着手しました。 自民党県政と独占資本が系統的に展開した右傾化政策は 和教組、和高教への★★と組織破壊攻撃 勤評七者共闘から安保闘争に参加した県職、住金、の 県地評からの脱退 革新県政をめざす二度目の対決が県地評から脱退して 「県労協」を結成(一九六七年) 住金では六〇年代の中頃からインフォーマル組織=「 五月会」が労組指導部の多数を握るようになる。独占の 反共攻撃とともに労働組合の中からの徹底した反共攻撃 を組織している。 こうして県地評脱退の住金、県職、を中心に「県労協」 が形成され七〇年代には前述のような関電ら同盟組織と 「県労連」を形成していく事となる。 六〇年代、県地評が直面した危機を克服していった最大の要因は何か。一言でいって、統一戦線への参加と平和・民主主義、生活、教育を守る共闘組織の結成に積極的役割を担い、県民の要求を担ってその中で活動した事であろう。 (1)六〇年代、共社両党と県地評を含む共闘組織は次の通 りである。 ①六五年・・・日韓条約粉砕、ベトナム侵略反対県★★ 委員会 ②六六年・・・★★★★★★反対県共闘会議 ③小選挙区制反対県共闘会議 ④社保協 ⑤六七年・・・食官共闘 ⑥在日朝鮮人帰国促進・朝大認可要求共闘会議 ⑦沖縄・小笠原即時★★★返還要求共闘会議(のちの沖 縄共闘) ⑧六八年・・・公害共闘 ⑨総合予★主義打破共闘会議 ⑩部落解放措置法実現共闘会議 ⑪六九年・・・大学管理法、反動立法粉砕共闘会議 ⑫七〇年・・・人尊方針★★、教育要求実現共闘会議 ⑬いのちとくらしを守る県民会議 ⑭七二年・・・県教育連合(社党の反対で政党ぬきとな る) ⑮七八年・・・有事立法粉砕県共闘会議 日米軍事同盟に反対し、平和と独立、中立をかち取る闘いは、安保共闘の再開を要求する運動と、「安保破棄県実行委員会」を確立して独自行動をすすめつつ、「日韓、ベトナム実行委」から「沖縄共闘」へと発展し、特にベトナム侵略反対の闘いをへて、七一年九月から七二年六月にい至る県沖縄共闘の持続的闘争となっていく。(沖縄共闘総括文書参照) 食管共闘や公害共闘、社保協、総合★★主義打破共闘などの共闘はやがて生活擁護闘争分野の共闘が七〇年代に合流し、「いのちとくらしを守る県民会議」へ★★する。 勤評、学テ反対闘争から高校「全入」運動を経て大学法、人尊方針★★などの共同闘争の教訓は和教組、和高教、和大三者による「和教協」も結成とともに父母、労働者に支えられる「県教育連合」の結成となり「全入県会」と名付けられる。教育要求で県議会を揺るがす大運動へ発展する。これらの活動は七八年和歌山市教組の破壊をめざし、自民党・右翼の一体による「スト参加者氏名公表」という攻撃に対して県地評、和地区労と民主的父母、労働者の連帯による勝利を築いていくこととなる。 なお六八年に結成された「小選挙区制反対共闘会議」は持続的活動をつづけ、七三年田中内閣による小選挙区制強行の挙動の中で一致して闘い、「田中内閣打倒・小選挙区制粉砕共闘会議」として二一回の集会、デモを組織し、全国的に合流し、勝利していく。 一九六〇年代、自民党と独占資本、及びこの挙動に呼応する労働運動内部の右翼的幹部らの攻撃と闘いつつ平和・民主主義、生活と教育を守る運動と、それをつねに持続的共闘組織として作り、共闘の軸に共社両党と県地評をそえて形成していったこと、県民の要求と期待に答えて闘っていったことは県地評右傾の危機を克服する大きな要因となるとともに、県地評自身が社会党一党支持のワクを脱して労働組合の本来の姿を取り戻す道をも作った事になる。 また、六〇年代(六三年、六七年)の二度にわたる県政革新のための闘い(小野対平越)、(平越対大橋)はともに接戦で敗れたが共社県地評を含む「革新政連合会議」に結集した。県知事選での共闘の教訓は「いのちとくらしを守る県民会議」などの結成の力、政党支持自由を確立した労働者のエネルギーなどと結合して七〇年十一月湯浅町長選挙で革新首長を実現していく。 ○四頁の後に挿入 県地評結成に先だって、戦後、紀南における木材産業労働者の組織化をはじめとして官公労・民間の産業別組織化が進む一方、四六年初頭から四七年へかけて紀南労協を初めとして、日高、和歌山市へと地区労が結成されていく事となる。 ○十一頁の後に挿入 先の県交通労働組合に結集した県下の中小私鉄労組は、やがて県地評、地区労へ加盟して行くが、県地評結成を前後する時期に賃上げ、解雇反対、職場民主化などを要求して全県的に連帯した創意的で果敢なストライキを毎年のようにくりひろげている。(上野寿雄氏「交通労働者の回想」 ○二十三頁の後に挿入 なお、勤評闘争にあたって県地評が組織した居住地での闘いと居住者会議の活動の先駆としては六十四年、和歌山市で高垣市長の汚職を追及し、社・共・県地評和歌山地区労を含め「市長リコール」闘争がある。勝利しえなかったが困難な中で、居住地で住民に支持を得ていく活動と、そのため労働者が産業の違いをこえて地域で共同した教訓が勤評反対闘争で生かされたといえよう。 ○三十五頁の後に挿入 三池闘争と関連して、安保後、日米独占資本のエネルギー政策によって石炭産業とりつぶし政策と闘った県内の産業に、紀南の三★★★鉱山と松沢炭坑がある。 一九六一年~六三年にかけて閉山、首切り(数百人)「合理化」に対して、県地評、紀南労協の労働者はもとより、県下の民主団体も共同した闘った。(和教組東牟婁支部四〇年史や、太田照夫氏「松沢炭坑閉山反対の闘い」など参照) 五、一九七〇年代と県地評 一、県下統一戦線・共同闘争の中心となって 一九七〇年九月、第二〇回定期大会における社会党一党支持方針の修正と正答し支持自由の確立。十月「いのちとくらしを守る県民会議」の確立。十一月湯浅民主町政の確立への貢献でスターとした七〇年代の県地評は歴史上もっとも高 揚した時期を迎える事になる。とくに七〇年代前半、県地評が果たした役割で特筆すべきものとして「いのちとくらし を守る県民会議」の活動、「県沖縄共闘」の沖縄全面返還・安保条約破棄の闘い、小選挙区制粉砕闘争などの統一戦線の立場にたったたたかいがあげられる。 (1)「いのちとくらしを守る県民会議」の闘い 自民党県政による住友金属、丸善東燃ら大企業のための産業基盤整備と「高度成長」のための長期総合計画(第一次一九六三~六九、第二次七〇~七五)の実施は職場においては労働強化と労働災害を激化させる。(住金では一九六九年度に粗鋼生産一〇五〇万トンを★★するが二年間に死者四三人を出している)一方県民生活の上では公害の激化、地場産業の破壊などをはじめ県民生活を直撃する。 「いのちとくらしを守る県民会議」は結成直後の七〇年十二月議会以来公害、物価、減税、教育、老人医療など生活要求にもとづく請願行動を大々的に組織していく。 県議会での共産党、社会党県議団と共同し、六七歳以上の老人医療費の無料化、二歳未満の乳幼児医療費の無料化を実現させ、全県的な自治体要求闘争をひろげていく。 田中内閣の日本列島改造計画の和歌山版といえる大橋県政のすすめる「和歌山・下津港整備計画」反対の県民大集会(七三年)は三〇〇〇人を結集している。さらに関電による日高から紀南への原発誘致、紀伊半島エネルギー基地化に反対する闘いなど「いのくら」に結集する労働者の共闘はほぼ七〇年代の十年間にわたっていく。一九八〇年の「社公合意」による社会党の反革新側への変質によって事実上「凍結」されるまで。そして、この共闘の伝統は、統一労組懇の誕生のもとで「国民大運動実行委員会」に受け継がれていくこととなる。(一九七一年県地評第二一回大会方針参照) (2)マル生反対闘争 七〇年代に「いのくら」共闘とともに社、共、県地評が参加して作られた共闘組織に国鉄労働者の「マル生粉砕県共闘会議」がある。 七〇年代から七一年にかけて国鉄当局が「生産性向上」の名のもとに行った国労への破壊攻撃に対して国鉄労働者は共闘会議の連帯の元県内でも和歌山、田辺の両器官区で一九時間のストライキをうち、過酷な弾圧にも抗して闘い抜く。(県地評第二二回大会報告)参照 なお、七〇年代に県地評と春闘共闘が県民の生活擁護の上で闘った特筆すべき闘争に″七三年の「年金スト」・がある。(県地評三〇年史によれば、全逓和歌山が二四時間スト、本州化学四八時間ストなど三四組合が統一スト参加とある。) ついで七五年の国労を中心とする「スト権回復ストライキ闘争」への共闘・支援があげられる。 なお七〇年代の「合理化反対」闘争として、県地評、和歌山地区労が総がかりで闘ったものには、この国鉄マル生闘争の他に、本州化学の「指名解雇」撤回闘争(七八年)がある。(県地評、地区労の総括文書参照) また、七〇年代半★に「不況」を口実とした不当解雇、労組つぶしに対して、全自運をはじめ民間労組による「争議団共闘」が結成され地域共闘に支えられて闘ったことは教訓として総括する必要があろう。(右翼の潮流の合流県労連結成。これと一体の経営者による★★との関連は後述する。 (3)「沖縄闘争」の闘い 「沖縄の即時無条件全面返還要求和歌山県共闘会議」(沖縄共闘)が本格的に活動を再開するのは一九七一年九月一日であるが、その直後に開かれた第二回県地評大会には次の方針がある。「とくに秋の沖縄返還」協定批准国会に向けてその批准に反対し、同時に核も基地もない沖縄の無条件全面返還をめざして闘いを積み上げていく。この闘いのなかで佐藤内閣を打倒し、国会解散に追い込み、「安保条約を廃棄する民主的な政権」をうちたてる闘いに発展させる。(傍線筆者) 核も基地もない沖縄の全面返還を中心とする七〇年安保闘争をとおして、県地評は「安保条約廃棄の民主的政権樹立をはじめて労働者の闘争課題として打ち出すのである。「沖縄闘争」と言われる六〇年安保反対闘争につづく県下民主勢力のこの大闘争は「沖縄共闘」のもとで七一年九月から一九次の統一行動、国会請願★★★団置計十次、五九一名(他に全電通県支部は沖縄★★へ連帯共闘代表団を)(二次)一〇八名送っている。山場での労組ストライキ(南海電鉄、本州化学、日赤、日通、全自運、田辺、三生、和歌山生コン、和信用、和水労、全日自労、新宮木労など)などを含んで七二年六月、施政権返還後初の沖縄県知事選で革新統一候補(屋良氏)の勝利する日まで続けられる。(沖縄闘争については「権沖縄共闘の総括文書参照) 一九七二年九月の第二二回大会方針には県地評としての沖縄闘争の総括とともに「運動の基調」に次のことが方針化されている。 「沖縄を含む日本全土がアメリカのベトナム侵略戦争の直接的で最大の総合基地となっている元で日米安保条約廃棄の課題はいよいよ重要となってきています。県地評は全民主勢力の中心部隊として統一行動のために積極的に奮闘します。また、本年秋から来春に予想される総選挙では革新勢力の必勝をめざし安保条約を廃棄する民主的な政府を打ち立てる闘いに発展させます。」と。これは七〇年代の初頭、県下の労働者階級が日米軍事同盟に反対して闘った沖縄闘争の高揚とその到達点を示すものとして言えよう。 (4)小選挙区制反対共闘会議はすでに一九六六年から活動しているが、とくに七三年春時の田中内閣による小選挙区制強行の動きに対応し、安保破棄実行委員会による大宣伝行動の展開を先頭として活動を再開、社共・県地評を含む田中内閣打倒、小選挙区制粉砕共闘会議として発展、全県的な闘争を広げついにこれを断念させる上で積極的な役割をはたした。 この沖縄闘争を通じて県地評が確立した「安保廃棄の民主的な政権樹立」方針との関係で七二年度の第二二回大会に「全日通労組」が「平和と政治闘争の強化」の項で出した修正案を見てみよう。(少し長いが引用する。) 「真に『民主的政権樹立』を計るため革新政党を強めなければなりません。そのためそれぞれの要求課題にもとづきこれと一致する政党との緊密なつながりと協力関係をいっそう強める必要があります。したがって県地評は野党の反独占、反自民の闘いの中心的存在としての活動・・・を考え、総評との関係も考慮して日本社会党を支持し、他の革新政党とも政策が一致した段階で協力して闘いをすすめ・・・・。」 社会党一統支持方針を復活させるために出した修正案でも「民主的政権の樹立」をかかげそのために「反独占、反自民の闘争の中核」として社会党を位置づけているのである。 この修正案一つをとってみても、社会党の今日の右転落と全日通らの「連合」参加への転落ぶりは目を覆うばかりである。彼ら自身自らの修正案に驚きを禁じえないのではあるまいか。 県地評とその傘下労働者が参加し、一九七〇年代平和と民主主義を守る柱となった「沖縄共闘」と「小選挙区制共闘」の伝統はその後五年間の空白ののち、福田内閣が強行を企てた「有事立法粉砕県共闘会議」として一九七八年九月以来統一行動を展開する。しかし、反共社公民路線の進行から八〇年「社公合意」総評の急速な右傾化とともに以後、社・共・県地評を含む共闘は終わりを告げる事となる。 (5)和歌山市長選挙 七四年五月富士原裕県地評議長を民主勢力の統一候補として和歌山市長選挙を闘う。敗北したが県地評と和歌山地区労が社共両党が民主団体とともに総力をあげて闘った市政革新をめざす取り組みは記念されるべきものである。 (7)民主教育を守る共同闘争 一九七〇年代の教育は反動的な中教審路線との対決を軸に進行する。勤評闘争につづき県地評が教育★★★★て闘い勝利したものとしてとくに銘記すべきものが二つある。 一つは勤評裁判の勝利である。六三年和地裁での和教組地公法違反事件での不当な有罪判決以来六八年大阪高裁での「全員無罪判決」、さらに七〇年七月最高裁出の「無罪判決」ならびに七三年九月和地裁が「県教委の処分は懲戒権の乱用、憲法違反」として処分の取消を命じた。和高教の勝利判決・・・この勤評闘争に続く一〇年にわたる裁判闘争を支えて闘った事。 二つは★★の七八年全国に先がけて和教組を破壊するため和市教組をターゲットとして教委、自民党右翼らによる合体作戦をくりひろげた。「スト参加者指名公表」の攻撃との闘争・・・これを支え勝利するまで闘った事。 ※堀井雅文(スト参加者公表の闘い) (6)本州化学労組の「合理化」反対闘争への支援 2、右翼的潮流と県地評内部からの右傾化攻撃 (1) 二年一月、住金県職を中心に「県労懇」とJC、県同盟などが合流し、「県労連」を結成する。(八三組合約三万八千人) 五七年の「関電」「全繊」らによる「民労協」、ついで「全労会議」から六五年の県同盟の結成。さらに六七年の住金・県職の県地評脱退と「県労懇」結成。この二つの流れが「県労連」へ合流する。 この自民党県政及び住金関電ら独占資本と結託した右と潮流が当時県地評傘下労組に対して行った、労働者の権利侵害 と組織破壊攻撃の状態と関係職場は一九七二年度の第二二回大会方針「闘いの総括」の項に詳しい。 (2) 方県地評内では一九七四年(第二四回)大会において今日「連合」に走った反共幹部達は大会を反共キャンペーンの場として「政党支持自由」「平和。民主主義を守る共闘組織強化」の課題を棚上げさせる暴挙を行った。反共社民らの行った修正案八件のうち一件をのぞきすべて反共を前提とする統一行動と統一戦線を露骨にもりこんだものであった。彼らはこの修正案をテコに「総評路線からはずれている」「修正案は採択すべきではない」(すれば脱退する)という不当なゴリ押しを計った。 (八修正案とは、政党支持、日中、解同、護憲、原水 禁、オルグ問題、組織問題を中心とする規約改正。 解同の「朝田」理論持込みをを全電通が、日中「正 統本部問題」を全逓が、政党支持問題を動労がなど) 彼らのねらいは①地評内の小数が多数を屈服させる手段として「組織脱退」を武器として議案の根本的修正をせまる。②執行部の権威を失墜させ地域共闘の機能を麻痺させ、民主勢力の共闘に打撃を与えることにあった。 これは総評内に反共の潮流が高まっていることを背景にした県地評内の「総評社会党路線」を追及する反共社民幹部の策動であるが、より根本的なところでは、自民党大橋県政と住金・関電ら独占資本による反共シフトと統一戦線破壊のための路線=県労連の育成と県地評の抱き込み、これに呼応する社公民路線にとって重大な障害となっていた県地評方針を変質させようという策動であった。 結局、この大会は①修正案をとりさげる。同時に修正案に関連する原案をすべて削除。②政党支持自由の方針をタナあげ。③「総評の提起する国民運動について、総評・県地評の相互関係を考慮して、県地評のおかれている立場、それぞれの構成単組の自主性を充分に配慮して運動の発展を期します。」を入れ ⑥「組織検討委員会」を設営して、代議員構成にして規約改正の結論を出す。・・・事となって終わった。 一九七〇年に確立して以来の政党支持自由の★は(その後社会党一党支持に押しつけは許さぬものの)事実上この時からその明確な姿を消し、七〇年代の後半の第二の反動攻勢のもとで民主勢力の共闘と統一戦線の旗も(いのちとくらしを守る共闘会議)の活動や有事立法共闘の結成など、一時期の共闘はあるがその輝かしい光彩を県地評から奪うことになる。反共主義との闘争とその克服なしに県地評の団結も前進もありえないと言う大きな教訓を残した大会といえよう。 (3)いのちとくらしを守る県民会議の活動凍結 (4) その後、一九八〇年の社公合意・総評右転落の影響を受け県地評も一九八〇年代後半には正常な活動ができないという状況が生まれる。そして、一九八九年十一月、 「連合」に屈服した社会党一党支持組合は県地評から脱退していく。 県地評から脱退した諸君の「総評センター」設立趣意書を読むとまず気づくのは県地評の歴史的に果たした役割について否定できない事である。 同時に、この否定できない事実を何によって消し去ろうとしているのか。 「『経済、産業構成』の転換が急ピッチで進む中で、労働解の地盤沈下、とりわけ組織率の、戦闘力の低下を来たし、現在名お残念ながら克服するに至っていないと言うところにあります。」 政府、独占資本による「産業構造の転換=空洞化」を許したものは何か。「労働界の地盤沈下、戦闘力の低下をきたしたのは誰か?」は明かである。政府、財界に屈服し闘う労働運動を構築しようとはせず、反共、反革新の道に転落していった「総評」そのものであり「連合」の形成そのものではないか。 まさか自ら天にツバするの類と言わねばなるまい。 #
by kainanrekisi
| 2015-09-25 12:38
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