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海南にお住まいの保田先生が、和教組の古い写真を解析してくださった。
保田先生は、1947年から49年にかけて、本部常任。情宣部長を勤められた。 「自分が写真に入っていないのは、写真を撮ったんだ」「座り込みをしていたとき 謄写版を刷っていた」とのことである。 お許しを得て、ここに紹介します。 雑賀 ハンスト写真 ![]() ![]() ハンストのテントの場所 ![]() 日教組第5回大会(塩原)参加した代議員 ![]() ![]() 和教組勝浦大会 ![]() ![]() # by kainanrekisi | 2009-02-22 20:50
「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第2号(1971年11月5日発行)より転載 はじめに 高校生だった僕の心を揺さぶった日東紡闘争。毎日の新聞を切り抜いて「どんぐり会」のスクラップブックにはりつけたこと、はじめて参加した労働者の集会、そこで歌われた「若者よ」「おれたちゃ若者」の歌の力強さにおどろいたことなど思い出すにつけても、このたたかいについてくわしく聞きたいと思っていました。さいわい、岩尾先生の協力で関係者の方がたに集まっていただくことができました。 そのときの記録が、一年以上私のノートに眠っていましたが、そのままにしるのはあまりにもったいないと思い、ガリを切り始めました。走り書きのメモですので、間違いもあるでしょうし、意味のとれないところもありますが、メモに忠実に書きました。 訂正や補足がありましたら、お教えください。 雑賀光夫 1971年5月15日 ![]() 日東紡闘争略史 33年頃 二人の労働者 人生手帳「みどりの会」へ うたごえ「雑草の会」 35年3月 会社「みどりの会」へ圧迫(一人一人呼んでやめさす) 36年4月 ナロード合唱団できる 7月 日東紡からナロードへ参加はじめる 10月 会社「青年学級」をつくる 11月 面川さん配転 中旬 寮長が和田さん、久保さん、面川さん、井戸さんの自宅を訪問 20日 和田さん「ハハビョウキ」の電報で帰る 21日 那須さん、手紙で帰る 久保さん、会社がしくんだものと見抜いて帰らず 26日 久保さんへ速達「父入院」 電話してみるとウソ 和田さん、久保さんら、1週間ほどで会社にもどる。 12月14日 寮でビラまき「みなさんに訴えます」 15日 工場賞罰委員会 16日 会社、面川さんを裏門から連れ出す(正門にニセの車をまわして支援の人の目とくらます) 18日 折戸さん、山岸さん「自発退職」 19日 職安が調査に乗りだす 午後、折戸さん、日裏さん、中山先生 人権擁護委へ 6時30分 地区労が抗議集会(150人 於・教組) 9時 冷水氏・中山先生 工場長に抗議 9時30分 日裏さん 寮へもどる 20日 地区労常幹 県労政課、調査にのりだす 前中氏、県会で質問 民青同盟 声明を発表。和教組声明、全国に訴え 21日 折戸さん、山岸さん、退職金を送り返す 両人、冷水氏、中山先生とともに職安へ 22日 折戸さんら市職など各単組で訴え。共闘会議結成。 6時 市民報告集会 地区労ビラ「人の首はこんなに軽いのか」 24日 社会・革新クラブ(県会)が調査団(前中・松本・中谷) 37年3月12日 地裁へ訴える 7月17日 さまざまな困難の中で、和解せざるを得なくなる。 * この年表は、当時高校生であった「聞く会」参加者の一人が持っていた海南新聞などのスクラップをもとにしてつくりました。 以下、本文は、時間ができたら追々アップします ![]() # by kainanrekisi | 2007-01-03 16:52
1970年2月1日 於 教組二階 U ビラを読んでもらおう。 K 和田さんが呼び戻されたときのビラ? U ビラそのものを持っていたつもりだったのに残念。14日朝まいた。 12日頃、ここで、岸裏、岩尾、ムーちゃん、あやちゃん、すみちゃんで書いた。3人思うこと書けということで、五分の四はムーちゃんの文、五分の一は岩尾先生。あとはわしがちょいちょいなおした。 M ようばらまいたなあ。 B ききたいんやが、ビラをまいたらどうなるか、見通しはどうだったか。 I わしは反対やった。 U 「組合幹部に突きつけよ。義理立てさせよ」とわしはいった。「撒いてしまえという」という反対意見もあった。 配ってしまってから、労働協約・会社規則を見せてもらって「寮規則違反だが労働協約違反ではない。勝てるからやりきれ」といった。「理屈では勝てぬ」という人もあった。 B ビラを撒いて知ってもらい、次にどうしようとしたのか。首切りを予想せずに…。 I これは同盟系幹部でも見過ごせないのではないかという判断があった。 U 民青を守るというより人権を守るという。 I 「おそらく次々いかれるのではないか。いかれてしまうよりやりきってしまえ」ということもあった。 U この闘争がおこるまで、この人たちと接触はなかった。聞いてみると会社はむちゃくちゃだ。「もう黙ったおりません」というのが実感。 S 総括はどうか。ビラのようなことを大きく見過ぎるのではないか。 B 19日の後の人権闘争しか知らないが、ここで大量宣伝して同盟幹部の反応を期待するということで勝負に出た漢字がする。やってなかったら、ずるずるいかれるかもしれない。 昭和36年と今とのちがいはある。市職などに訴えにきてもカンパなど集まった。革新側にナイーヴに反応する状況はあった。 U いまなら途中で「やめよらい」にならない。全国的な闘争になる。 N ビラ撒くまでの状況を。 I ナロードのことなども。 L ビラを撒くまでどうだったのか。たたかいの意義をどう押さえたのか。労組の反応は? K 人生手帳というのがあって、二人いって自己紹介したら…。「みどりの会」は海南にはないので、和歌山までいった。はじめ「あすなろ」(うたごえ・和歌山)へいっていた。電話局の人、橋爪さんなどと一緒に「雑草の会」をつくった。 ナロードができたのは、そのあと。ナロードは日方小学校を借りて、日東紡から30数名、岡先生、橋爪さんの指導で、100名を越した。郵便局、和相互、笠野、大日電線、東燃、丸善の下請け。 B 海南の第二次歌声運動だ。 N その歌声の中で、地区労などの手の届かないところの人たちを育ててくれると見ていた。 K 組合もそれに対抗して、歌の先生など呼ぶようになった。「女大学」など。 N 亀川の校長をやっていた人が講師で。 K 労組と会社が一緒になってやる。門限は9時半だった。 N 会社のスパイも。 K 寮の役員などがスパイをした。30数名になったのは、短い間だった。会社の中でもコーラスをやりだした。「くろい花びら」なんか。私ら若者の歌の方がいい。カチューシャの方がおもしろい。 新入社員歓迎の時、作業服で白いエプロンかけて、ナロードで覚えた歌を歌った。 B 昭和33年和歌山のうたごえに日東紡から来ていた。舞台に立つとき列の後ろの方に日東紡の人をおく。少し思い過ごしやないかと思った。田辺でやったのだが、田辺に来るのにみんな「国に帰る」ということで休みを取って来ていた。 T 日東紡の人で練習しているとき「はたおり虫」を歌って泣いてしまった。 O 経済センターでやったとき、寸劇もつくった。 B なんかの時、寸劇にして…。 C ミール合唱団が「日東紡を守れ」という歌を作ってくれた。 I 「歌って踊って」とよく悪口を言われたころだな。 N あかぎれの傷口に糸くずが入ったら、すごく痛いんだね。 面川さんの配転は? C 政暴法反対で東京へ行ったとき U 警察から写真が回ってきて。姉さんところへ行くといってでたんだが。 B 「自由がほしい」ということか?寮生活をしていた女子労働者の一番の不満は? C 門限が早いこと。 K 5年以上いて1万円以上(以下不明) ご飯は、外米を蒸気でたく。おかずは一品。 布おる機械を60台…。止め損ねたら何100本の糸が止まる。止めるのが10分…(* このあたりメモが不十分なので…)不良の反物を作ると呼び出される。 ご飯をたべるのがすごく早くて2、3分。ご飯に虫、カタツムリが入っていたこともある。みそ汁は大きな釜でたいてバケツで汲む。長靴で踏んだところにおいたバケツで…。月給を見せ合うようなことはしない。仲間より10円でも余計にほしい。当時900人ぐらいいた。 T 田舎に帰って、えらい人につけとどけをすると給料がよくなる。 I 仲間の要求をどう意識化するか、寮内の民主化闘争をどうするかということだが、それができずに個人的に抵抗する。大衆闘争としてたたかえない(つづく) # by kainanrekisi | 2007-01-02 18:30
「人権侵害の会社には、卒業生は送れない」
……海南・日東紡闘争と和教組 海南市のいまはジャスコ、ココなどという新商店街になっている一帯、ここに日東紡績海南工場があった。私が高校生だった一九六一年、女工さん達のサークル活動への弾圧があり、いわゆる日東紡闘争がたたかわれた。 私は、海南高校どんぐり会(部落研)に所属する高校生だった。社会問題・人権問題に目を開いたばかりのころ、「海南新聞」の紙面に毎日とりあげられた記事を、自分でつくったスクラップブックにはりつけた。その貴重な資料を高校の部室に置いていたのでは紛失すると怖れて、自宅に持ち帰ったものが、私の手許にある。それを元にしてつくった年表がある。一部を抜き出してみよう。 一九五八年ごろ 二人の労働者、人生手帳「みどりの会」へ 一九六〇年三月 会社は「みどりの会」へ圧迫(一人ひとり呼んでやめさす) 一九六一年四月 ナロード合唱団できる 七月 日東紡からナロードへ参加し始める 十月 会社は「青年学級」つくる 十一月 ナロードに参加のメンバーに、配転、呼び出し、自宅訪問、 「ハハビョウキ」の電報、「父入院」の速達など 十二月 「みなさんに訴えます」のビラ配布。 退職強要などつづく。 地区労が支援。職安が調査。前中県会議員が質問。 和教組全国へ訴え。民青同盟声明発表。 共闘会議結成。市民報告大会(海南駅前) 社会・革新クラブ(県会)が調査団(前中・松本・中谷) 一九六二年三月 地裁へ訴え 七月 和解 ![]() 海南駅前広場で開かれた女工さんたちをはげます市民報告集会。高校生の私は自転車にのってでかけた。集会に参加するのでなくて、横から見ていたのである。司会者が「次は、共産党の代表の方」と紹介すると、ガタガタと下駄の足音高く代表者が走り出てきて挨拶に立ったのを今でも覚えている。集会の最後に歌われた「おれたちゃ若者」の歌がなんと力強かったことか。 ♪♪ おれたちゃ若者、元気を出そう。幸せつくる力、それが若者。オイ、どうしたい。それがなんだ。そうだ、前をみよう。そうすりゃ、道は近い。ころんでおきる。♪♪ そんなこともあって青年時代の一九七〇年頃、「日東紡闘争の話を聞く座談会」というのを開いた。参加者は、岩尾靖弘さん(故人・当時和教組海草支部書記長)と奥さん、中山豊さん(現県議会議員、当時の海南地区労議長)、板東旦舒さん(当時海南市職書記長)、当時の日本共産党市会議員、当時の女工さんだった三人の女性などである。 *「当時」とは、「一九六一年当時」のこと 日東紡績は、海南市における中心的企業だった。日東紡績では、戦後すぐ女工さんがストライキをしたという歴史があり、それを私たちは第一次日東紡闘争と呼んでいる。この記録も、海南堂書店のご主人・田中正美さんらからの聞き取りをまとめたものも、わたしの手許にはある。だから、一九六〇年代の闘争は、第二次日東紡闘争である。どちらの記録も、自分でガリ切りして「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)にのせている。 さて一九六〇年頃、日東紡績の女工さん達は、北山村、本宮町など遠隔の地からあつまってきていた。その女工さん達が、会社がすすめる生け花など花嫁修業だけではあきたらず、当時の若者に読まれていた「人生手帳」という雑誌をよみ「みどりの会」にはいった。そこから、海南の歌声サークル「ナロード合唱団」にも参加。その先進層が、民主青年同盟とであう。 当時の様子が、座談会では次のように語られている。 「不満は、門限がはやいこと。ごはんは外米で蒸気でたく。おかずは一品。布おる機械を六〇台。とめそこねたら一〇〇本の糸がとまる。不良の反物をつくると呼び出される。ご飯を食べるのがすごく早くて二・三分。虫、カタツムリがはいっていたこともある。みそ汁は大きなカマでたいてバケツで汲む。長靴でふんだところにおいたバケツで……。月給を見せ合うことはしない。仲間より十円でもよけいに欲しい。当時、九百人ぐらいいた。」 女子青年達の自覚のたかまりをおそれた会社側は、北山村などから親をよびだすなどして、娘達をつれて帰らそうとするのである。岩尾靖弘さんは、郷里の親の説得に北山村にまで出向いたという。自家用車などなかった時代のことだ。 たたかう女子青年たちをはげますために海南地区労はたちあがった。和教組は「中学校卒業生を日東紡海南工場へは送らない」(一二月二二日、海南日々新聞による)と声明する。しかし、企業内の組合は、会社と一体である。 ![]() こうした中、たたかった女子青年たちは、最後は地裁の斡旋で和解するのだが、「和解に応じるかどうか、本心を言わせようとおもって、どぶろくをのませにいったこともあったね」というひとことに当時の苦悩がしのばれたものである。それを支えたのは、地区労の労働者、教職員、和歌山からも応援に行った青年・学生たち、それに岩尾夫妻や教育会館に住み込んでいた和教組海草支部書記のおばちゃんなどであった。 座談会のおわりごろ、日東紡闘争のころから歌声にかかわっていた岡宏先生(故人・のち和同教会長)が、そのころ海南ではじめた歌声サークルの女性たちをつれて入ってきた。座談会の後半を聞いて、女性の一人が言った。「私たち、あたらしいサークルの名前をどうしようかと迷っていたんです。いま岡先生と相談したんだけど『なろうど』の名前を受け継ごうとおもうの」と。 「日東紡闘争の話を聞く会」の座談会は、「たたかってよかった」という女性たち言葉と「それにいいダンナさんを見つけたしね」という言葉で結ばれている。ちなみにその女性たちは、日本共産党の役員や県会議員の奥さん、和教組支部の書記さんとして奮闘しておられる。 和歌山の百年のひとこまを私の青春のひとこまと重ねあわせて、そのひとこまをつくられた仲間と先輩を偲びながら書かせていただいた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() # by kainanrekisi | 2006-01-21 20:58
和教組副委員長の雑賀でございます。
七年ほど前の三月ごろ、東海南中学校前にあった岩尾先生のおたくにおじゃまいたしました。学校を退職することを決めていた先生に、「本部にきて教育研究所の仕事を助けて欲しい」とお願いするためでした。岩尾先生は、お孫さんにカレーライスを食べさせていました。「食べるか」と言われ、お腹がすいていたのでご馳走になった記憶があります。本部にきていただく条件としては、田淵委員長とは、「五万円程度の行動費を出して民研の仕事をお願いする。」ということにしておりました。 私は忘れてしまっていたのですが、のちに岩尾先生がその時のことを、よく話してくれました。「わしは、ゆっくりしたかったので断わるつもりやった。ところが、雑賀書記長が勝手に自分の教育研究所の構想を語り始めたので、それにのせられてしもうた。」 この言い方は、岩尾先生一流のほめ上手で、わたしを持ち上げて言ってくれているんですが、それだけでもありません。私は楠本先生に、「書記長をやめたら教育研究所の事務局長をやりたいな」と言っていたくらいですから、教育研究所のあり方への夢を持っておりました。当時、教育研究活動の四つの組織論というのを私は森畑教文部長とともに提唱していました。教研集会、自主的な教育サークル、教育講座、民主的な現職教育をふくめた職場教研、以上の四つですが、その要の位置にあるのが国民教育運動特別分科会であり教育研究所だというものでした。 わたしの構想はともかくとして、教育研究所への期待は大きかったのです。楠本先生がその基礎を築いてくれましたが、一旦現場に帰りたいという希望を出されていましたから、岩尾先生しかないと目をつけたのです。 岩尾先生がおいでになってすぐに、研究所の書庫を一階に移し、今の研究所の部屋をつくります。その計画は、前任者の楠本先生のときからあって、工事もすすんでいました。今その部屋には、立派なテーブルと座り心地のよい椅子がはいっています。そのテーブルと椅子をめぐって、和教組常任会議で岩尾先生と私の綱ひきがくりかえされました。岩尾先生は、所員会議ができるぐらいの立派なテーブルと椅子をいれたいといいます。私は貧乏性ですから、「所員会議は、べつの会議室でやればいいので、そんなに大きなテーブルや椅子はいらない。パイプ椅子の方が場所をとらんでええのとちがうか」と値切りにかかります。ところが、岩尾先生はこれだけは譲らず、くりかえしまきかえし、にこにこしながら主張されました。私の方が根負けして、あのテーブルがはいったのです。 岩尾先生は昔こんなことを言っていたことがあります。「退職したら、自分の家を労働者に解放して、サロンにしたいんだ。」岩尾先生は、教育研究所を、現場の先生も、大学の研究者も、組合の役員も自由に入ってきてコーヒでも飲みながら、教育・人生・文学・・・なんでも語り合えるサロンにしたかったのだろうと思います。そのためには、机と椅子さえあればいいのではなく、それなりの心地よさが必要だったのです。 岩尾先生が、おいでになってからの、研究所でのおしごとについてふれる時間が余りありません。「体罰否定の問題」がかわぎりでした。つづいて、同和教育の問題などの研究班の活動、月報の編集の改善など多様なとりくみを進められます。和歌山の情報のデーターベースを作ろうという新聞切抜きなども始めるのですが、組織者としての岩尾先生の面目が発揮されます。岩尾先生をしたう若者のボランテイアが組織されました。 岩尾先生の特質は、理論家であり、組織者であり、ロマンチストであり、遊び人でありという多様な面が統一されていたということです。体を壊してからは、お酒を控えておりましたが、酒も飲めば麻雀もする、あらゆることを通じての組織者でした。しかも、自分自身が楽しんでおられました。 岩尾先生は、七〇年前後に「組合と政治の岩尾」から、「教育の岩尾」に変身するのですが、教育家の岩尾にも、組合の理論家・組織者の良さが貫いていました。仲間の実践の中から値打のあるものを見つけ出し、評価し、組織するというやりかたです。 教育の岩尾に変身してからも、最後まで選挙になると必ず海南に駆けつける岩尾先生でありました。中原さんを立てた海南市長選挙では、選挙参謀でありましたし、先の衆議院選挙でも、海南の教育会館の近くのアパートの一室でオデンをたきながら、仲間を激励しました。その過労が・・・・と思うと、私ども若いものがもっと頑張って先生にゆっくりしてもらったらよかったという後悔をしないではいられません。 先生は、まだまだ仕事をしたかったに違いありません。病気になる直前、何かの機会に「いまやっている仕事が、今までで一番楽しい。」と言われたことがあります。もっとも、先生は、そのときそのときにやっている仕事が最も楽しい人だったのかも知れません。それにしても、「今やっていることが、一番楽しい」といわれた言葉は、先生がなくなった今になっては、「和教組に引っ張り出してもらって楽しくやらせてもらったよ」と語りかけて頂いているような気がして、ほっとした気持ちになるのです。 岩尾先生は、どんなときでも、周りのものをほっとさせてくれる人でした。 以上でおわらせて頂きます。失礼致しました。 (追悼集会での報告原稿) # by kainanrekisi | 2006-01-21 20:52
北又先生が和教組執行委員長になられたのは、1974年4月のことでした。富士原前委員長が和歌山市長選挙に立候補されたあとを引受たのです。それから、八年間、委員長の重責を担います。私にとっては、支部書記長・本部執行委員としての一年目でした。 この年は、春闘で和教組・日教組も全一日のストライキをたたかった年でした。日教組への刑事弾圧が行われました。当時の日教組委員長・東京都教組委員長など逮捕され、今も裁判が続いています。こうした厳しい情勢のもと「教育労働運動はどうあるべきか」いわゆる教師・教職員論をめぐる論争がおこりました。和教組は、その論争を通じて北又委員長の指導のもとに「教師は労働者であるとともに教育の専門家である」という方針の「基調」を確立します。当時は、「勉強についていけない子供をのこして放課後に勉強をみる」などというと日教組の大会では「教師聖職論」「補習の復活だ」と、ヤジがとんだものです。 本部常任になってからのことですが、西山先生がよく言われたものです。「今の委員長ね、現場にいるころ、婦人部の講師をたのむのに、学校に電話するでしょう。時間がかかってやっと電話に出るので、何してたのと聞くと、子供の勉強を見ていたというのよ。放課後なのに。『本務外労働じゃないの』といったら『バカ、教師としてあたりまえだ』としかられた。」 当時でも教育実践家の先生には当たり前のことであったでしょう。北又先生は、和教組の闘士でありながら教育実践家としての、あたりまえのことを失わない人でした。まさに時機に適した委員長を迎えたと言うべきものでしょう。 委員長になってもう一つの大仕事は、勤評・学テの処分和解問題です。このことについては、田淵委員長から話があったので省略します。その後主任任命制反対闘争など重要な教育闘争がつづきます。 私が、本部にお世話になるのは、北又先生の四年目、野田先生のあとを次いで書記長になるのは、北又委員長の五年目です。 新米の書記長のかなしさ、失敗ばかりしておりました。スト参加者氏名公表のころでした。新南小学校PTAに永井前文部大臣が講演にきました。その時の懇親会で出た話というのを「和教時報」に書きました。極めて不正確な記事でした。PTAが、ねじこんできました。北又先生は、私を連れて鄭重に会長の自宅まで謝りに行ってくれました。そのほかにも、迷惑ばかりかけておりました。でも、そのことで、厳しく叱られたわけではありません。失敗の尻拭いは、みんなやっていただきました。追悼文集に「いつまでもこわい先生」と書きましたが、先生の怖さは、仕事に対する厳しさの問題です。 要求書や声明文など対外的に発表する文案を見せに行きます。直ぐ「いいよ」と言ってもらえると思って机のそばにたって待っていますと、先生は原稿をじっとみています。やがてペンをとって直し始めます。とても待っていられないので自分の机に戻って仕事をしていると、直した原稿が帰ってきます。みると、私の原文はほとんど残らず書き直されているのです。わたしも、いま、若い人の書いた原稿を直す立場にたたされることがあります。見せられた原稿が気に入らなくて、全文書き直すこともありますが、北又先生の直しかたは、原稿を生かしながら気になるところを直していたら、結果的に全文直してしまったという直しかたなのでした。「若いものは、原稿を見せに来るときは『これで最高です』というところまでねりあげてから見せに来るべきだ」とよく言っておりました。 こんなことだから書記長としては怖いのです。自分がやっている仕事を委員長がどんなに見てくれているのかなという怖さです。そういう怖さで、忘れられないのは、年末団交の時のことです。最終団交に近い深夜までかかる交渉を終えて書記局に戻りました。先生が怖い顔をして座っています。わたしは、年末交渉など今すすめていることで何か心配をかけているのかとビクビクしていました。ところが、後でわかったのはいきつけのスナックにいやがらせにきたヤクザを追い払ってくれとママさんに頼まれ、思案している顔だったのす。県警本部長に電話をいれておいたら、ヤクザは飛んで逃げたそうです。バカバカシイと思う前にほっとしました。それほど、書記長という仕事は気を使うのであります。 和教組委員長とともに、県地評議長としての役割が大変大きかったと思います。「いのちとくらしをまもる県民会議」「有事立方反対共闘」「本州化学の合理化反対闘争」などの先頭にたった姿が思い出されます。しかし、革新統一が困難になる情勢は、県地評にも押し寄せてきました。「いのくら」の凍結は、その重大な一つでした。参議院選挙での社共の論戦のこじれから社会党が「共産党とは同席できない」と言いだしたのです。政党間の争いを大衆団体にもちこむ筋の通らない話ですが、「いのくら」は凍結せざるをえませんでした。 80年、「社公合意」のもと、革新分断・労働戦線の右寄り再編が進められました。和教組大会議案に「政府・独占の八〇年代戦略」を五項目にまとめた部分があります。80年の大会議案討議の時、北又先生が「情勢」の最後に書き加えられたものです。「①日米軍事同盟の強化②国民大収奪③政治・司法・教育の反動化 そしてそれをすすめるための④革新分断⑤労働戦線右寄り再編」というものです。いまも、この分析は大会議案にそのまま生きています。県統一労組懇の結成、大運動実行委員会、革新懇の結成など自覚的民主勢力が労働運動・民主運動の積極的伝統を一手に抱えて広範な国民の期待に応えるべき時が来ました。 80年、県統一労組懇が結成されます。その年の秋には大運動実行委員会が結成されました。北又先生は、県地評議長在任のまま大運動実行委員長を引受られたのは、81年のことです。以後のことについては阪中先生にお譲りしてわたしの報告を終わらせていただきます。 (北又安二先生の追悼集会での私の報告) # by kainanrekisi | 2006-01-21 20:46
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