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県地評の「再生」に寄せて
岩城正男 (注)25年間ほど私の手元にあった原稿である。 1990年ごろ、岩城先生が書いてくださったもの。読みづらい文字は、「伏字」になっている。 岩城先生は他界され、埋めようもない。 ご本人が発表前に推敲することのできなかった論考であることをお断りしておく。 原稿の後半には、岩城先生ご自身の書き加えがある。後日、子の書き加えを好かるべき場所に入れて、より完全な原稿にするつもりでいる。 2015年 9月 雑賀 光夫 一、はじめに 和歌山県地評は一九五二年四月二十一日に結成されている。その前年の九月八日サンフランシスコに於いて屈辱的な平和条約」と日米安保条約が締結され、日本国民の悲願であった平和、中立への道が断ち切られる。そして、県地評結成大 会の日から一週間後の四月二十八日この二つの条約が発効する。 現県地評議長田淵史郎氏は「県地評三十年のあゆみ」の中で次のように述べている。「我が県地評の結成大会(一九五二年)には『再軍備反対』のスローガンがかかげられていました。『北朝鮮の武力侵略反対』のスローガンをかかげ、アメリカの朝鮮侵略戦争を事実上支持した総評結成大会(一九五〇年)とは大きく違っていた事がうかがえます。これは和歌山県地評の結成が『平和四原則』を採択し、『ニワトリからアヒル』へ転換した総評第二回大会の翌年であった事の反映でしょうか。 《平和四原則=全面講和、軍事基地反対、中立堅持、再軍備反対》 結成後、四十年近い歳月を経て、いま、和歌山県地評は階級的ナショナルセンターの重要な一翼を担い、県下の労働者 と県民の要求と期待にこたえるローカルセンターとして「再生」の歩みを踏み出している。 以下は私の素描であるが、県地評の誕生とその後の歩みの中から戦後和歌山の労働者階級が残した遺産をふりかえってみたい。 二、県地評結成前後の教訓 日本の労働者を天皇への忠誠と侵略戦争に総動員させた「産業報国会」は一九四五年九月三〇日に解散した。同月アメリカ占領軍が和歌山に進駐する。労働者の生活と権利を守る労働組合結成の全国的な波の中で県下では敗戦二年後の一九四七年末には二九七組合、五四六一六人に達している。 県地評結成に先だって、戦後紀南における木材産業労働者の組織化をはじめとして官公労、民間の産業別組織化が進む一方四六年初頭から四七年へかけて紀南労協をはじめとして日高、和歌山市へと地区労が結成されていくこととなる。 戦後、全くゼロから出発して手探りで労働組合を結成していく過程は、故山本正治氏(和大名誉教授)の名著「和歌山 県民主主義運動史覚え書」や和教組東牟婁支部四十年史など一読するだけで先人たちの労苦と喜びを偲ぶことができる。 県地評第四回大会(一九五五年)の議案には「未組織労働者の組織化」の項に「去る四月十八日、和歌山市内の零細企 業の小労評が確立され、この問題に真剣に取り組んでおり・・・」という記述がある。県地評に加盟して活動するこの小労評」(和歌山県小企業労働組合評議会)の構成メンバーとして活躍した組織に和歌山建具労組がある。この組織の元委 員長であった、今は亡き沖実蔵氏は朝鮮戦争の直後から建具・木工産業の労働者の組織化のために文字どおりその生活をなげうって取り組み、模索し、挫折しつつも遂に団結の旗をうちたてていった人であるが、結成時の県地評をこのような活動家たちが支えていた事を忘れてはなるまい。(語りつぐ労働運動「建具労組の誕生と闘い」) 【二・一ストの共闘】 一九四六年の秋から暮れへかけて産別会議に結集する国鉄、全逓をはじめ官公労働者を中心に国民生活の危機突破をめ ざして二・一ゼネストが準備される。県下では一九四七年一月初旬「和歌山県官公労働組合協議会」が結成され、中央に 呼応して共同闘争委員会を確立する。 民商では全日通(最賃制確立、越年手当などを要求)や和歌山電軌労組をはじめ県下私鉄労組が参加する「県交通労働 組合」らが官公労働者と歩調をあわせ二・一スト突入体制を固めた。 このとき当時民間労組の結集体であった「和歌山地区労働組合連盟」〈これは扶桑金属=現住友金属、三菱金属、花王石鹸、東燃らが「政党色を排して統一無雑の労働組合連合体」をめざし前年の一九四六年六月結成(二三労組、六六三七名)〉も官公労働者のゼネストを支持して次の声明を発している。「今何のために全官公労働者がゼネストを断行しつつあるや。彼らとて再建途上の責務は充分に知★して居る限り、何を好んで再建を阻むゼネストを断行なさんや。★して動 物生活以下の飢餓賃金によっては到底その責務の貫徹を期す事能わず。ここにおいて彼らは政府に対し、数項目にわたる 血の叫びの要求を提出せり。しかるに政府は何等策を講ずることなく、誠意を示さずついに今回の事態に立ち★りたるは 正に政府の責任なり。ここにおいて和歌山地区労働組合連盟は全面的に彼らの闘争に対し支持する事をここに声明する。」 (一九四七・一・三〇) これより先、日本共産党和歌山地方委員会は次の支持声明を発している。「亡国吉田政府の虐政のもとに生死の境にま で追いつめられた労働者階級の必死の生活権利防衛闘争のために、やむにやまれず★★反撃の先頭にたって英雄的闘争を つづける国鉄、全逓、教員、官公庁の諸君・・・。我が党は・・・諸君が我が民族の★亡と生産★★の歴史的民族的使命 を担って奮闘する闘争形態であるゼネストを絶対支持し、その先頭にたって闘争する事を声明する。」(一九四七・一・ 一三) 県交通労働組合に結集した県下の中小私鉄労働組合はやがて県地評、地区労へ加盟して行くが県地評結成を前後する時期に賃上げ、解雇反対、職場民主化などを要求して全県的に連帯した創意的で果敢なストライキを毎年のようにくりひろげている。(上野寿雄氏「交通労働者の回想」・語り継ぐ労働運動参照) 二・一ストはアメリカ占領軍によって禁止されるが、県下の労働者階級による戦後★の共同闘争の大きな遺産といえよう。 【平和を守る闘い】 アメリカ帝国主義によって日本をアジアにおける反共の砦とするため急速に進められたサンフランシスコ単独講和に反対し「全面講和・中立」を要求する闘い。さらに日米安保条約にもとづく県内での基地反対闘争が県地評結成前後から五〇年代初頭に闘われる。 前県地評議長、故北又安二氏は県下の労働者が「平和の灯をかかげて闘った」時期を振り返り次のように語っている。 「一九五〇年トルーマン米大統領が朝鮮戦争で負けがこんできたために“原爆を使う”と言い出し、私たちはストックホルムアピールの署名活動に取り組みました。この署名は世界中で四億近く集まりトルーマンを思いとどまらせる力になりました。また、和歌山市で開かれた平和集会にも田上久信さん(元共産党県委員会副委員長・故人)らと参加しましたが小松原通りあたりのお寺の★へ座ったトタンに警官隊に囲まれて怒号の中でアッという間に解散させられた事もありました。平和運動への第一歩でした。 翌一九五一年には対日講和条約と安保条約が調印されましたが「国を売りにいく吉田(首相)をアメリカへやるな」などのステッカーを夜の夜中に貼りまわったこともなつかしい思い出です。」 (和歌山民報社編「語り継ぐ労働運動」より) これに先立つ一九四九年八月十九日、松川事件では物情騒然たる中、和教組の青年教師達は全面講和を要求する「平和問題講演会」を和歌山市・修徳高校で開き(平和問題談話会の知識人を呼んで、和教組教育部主催)成功させた。引き続き第二回講演会を翌五〇年に西牟婁で朝鮮戦争勃発直後に開催している。米軍占領下での全面講和要求行動であり、平和教育の記念碑の一つであろう。 三、県地評の結成と その階級的成長 平和闘争・勤評・安保 県地評の結成大会後の議案を読んでみて改めて感ずる事は「平和擁護闘争」のしめる重さである。結成大会のスローガンの第一は田淵議長の指摘のように「再軍備反対」であり、結成直後の第二十三回メーデーの中心スローガンも「再軍備反対・民族の独立を闘いとれ・低賃金を統一要求で打破」とつづいている。 二年後の第三回大会(一九五四年)をみても第一に「平和を守る闘い」があげられており、「生活を守り、民主主義を 守る闘争のすべてが平和を守る闘いである」と言い切っている。 (「賃金闘争」からはじまって、「平和擁護闘争」が最後に記述されるという議案構成になってくるのは一九五六年の第五回大会頃からである) 平和・中立の道を妨げた「単独講和」や旧「安保条約」締結による日米軍事同盟に対する、労働者の怒りと平和への大きさを改めて感じるものである。 一九五一年、西牟婁郡串本町・旧大島の大森山頂(海抜一七二メートル)の(旧)日本海軍電採基地あとに、米軍レーダー基地計画が表面化し、村民の反対運動がおこった。安保条約に反対し、平和を守る課題にこの翌年結成された県地評にとっての大きな闘争課題となり、大島軍事基地反対闘争(一九五三年)の取り組みが始まっていく。この闘争はやがて一九六〇年の安保反対闘争へ、さらに新安保にもとづく美浜自衛隊基地反対闘争へと発展していく。 一九五四年(第三回定期大会開催の年)の八月八日、和歌山県原水協が結成され、県地評もこれに参加し、県地評主催「平和祭」を行った。(八月十七日)翌1955年原水爆禁止第一回県民大会(五〇〇〇人)の成功のために貢献する。以後、核戦争阻止、核兵器全面禁止、被爆者擁護の課題を掲げられていく。 【勤評反対闘争から安保闘争へ】 一九五〇年代後半から六〇年代へかけて県地評は歴史的な共闘組織の結成と民主勢力の共同闘争に大きな役割を果たしていく。 「勤評反対七者共闘会議」(一九五八年五月一二日)、ついで「民主主義擁護・警職法反対県民会議」(共・社両党を含む県下で始めての共闘組織のスタート一九五八年十月二十二日)。そして、一九五九年二月の「県春闘共闘」の結成ののちの八月二十七日「安保★★阻止和歌山県民会議」の結成に参加し、生活と 平和を守る闘いを結合して行くのである。 県地評の民主教育を守る共同闘争はすでに一九五六年の教育二法反対闘争から始まっている。勤評反対闘争で和教組・高教組らの★★闘争に呼応する職場内外の決起大会、臨時列車「どんぐり号」を出して闘った国鉄労働者の生産点での闘い(中平喜★氏「国鉄職場の勤評闘争」(語り継ぐ労働運動所収)。さらに教育現場での苦難の闘争を支えた県地評加盟労組による「居住地会議」などの教訓が第七回大会(一九五八年八月)の方針に明らかにされている。「勤評反対七者共闘」につづく戦前の「おい、こら警察」復活に反対する「民主主義擁護・警職法反対共闘会議」は、中央では共産党を排 除してつくられたが、和歌山県下では共・社両党を含む共闘組織として結成された。 「勤評反対七者共闘」と「警職法反対共闘」の成果の上に、「安保改訂阻止和歌山県民会議」が結成されていく。勤評闘争から警職法闘争へ、さらに安保闘争への参加は県地評にとって共産党を含む民主勢力との共同闘争をとおして レッドパージ以後の社会党一党支持から共・社両党支持への質的変化をとげ、革新政党との協力共同、政党支持問題に最初の大きな変化をつくりあげていく事となる。 なお、勤評闘争にあたって県地評が組織した居住地での闘いと居住者会議の活動の先駆としては、六四年和歌山市で高垣市長の汚職を追及し、共・社・県地評・和地区労を含めた運動であった。 【安保改訂反対闘争】 安保条約第五条を中心にして日米軍事同盟の★★強化をねらった安保条約の改訂に反対する闘争は一九五九年から約一年半にわたって闘われた。安保改訂阻止国民会議のもと、二十三次の統一行動、三回に及ぶ全国的統一ストライキを闘いぬき二千余の地域共闘組織を確立した。 安保改訂阻止和歌山県民会議は一九五九年八月二十七日、共・社・県地評を含む民主勢力で結成し、町村段階の共闘を含め四十の地域共闘を組織した。(伊都・橋本、那賀、和市、海南・海草、有田郡市、御坊・日高、田辺・西牟婁、新宮・東牟婁 一九六〇年六月二十六日現在) ※町村では竜神村、白浜町、中辺路町、湯浅町、岩出 町、吉備町、貴志川町など 職場では★★鉱山、国労東和歌山で職場行動隊や社宅で共闘組織がつくられた。 共闘の署名は一月で一万余、二月末には二一九六〇人から、三月には六七一一七人、四月八二八八三名、五月一三五〇八七人と飛躍的に拡大し、七月末には二十数万を越えている。(最終集約数は不明) 県下の安保反対闘争は、中央国民会議の第五次統一行動までは共産党、原水協、県地評の独自活動が中心となり、県民会議の発足後に初めて第六次統一行動(一九五九年末)から共同闘争を展開していく。これは一九五九年六月段階で共産党県委員会が社会党と県地評へ共闘会議の組織化を申し入れ、県地評も自ら県民会議結成の努力をしたが社会党県連(代表田中織之進氏)が「独自に闘いをすすめ必要なときに共闘を組めばよい」と共闘を避けたこと。また民労協(民間産業労働組合協議会、後の全労会議・・・同盟)が「共産勢力と共闘できない。社会党が共産党と手を切ったら共闘にはいる。政治闘争は社会党の責任で労働組合は協力だけ。」という理由で参加を拒否した。 県民会議結成直後の第六次、第七次段階から全県的統一行動が提起され、批准阻止の署名・ビラ宣伝、県民大会などが行われていく。一九五九年暮(第七次~八次統一行動)は一九六七年一月の岸首相渡米阻止にむけ闘いが集中される。 県地評傘下の住金労組大会でのスト権集約では賛成が九四八、反対九四三(白紙一一七)で、ストライキの決行はできなかったがやがて六月の一ヶ月間に三回にわたって敢行されて全国統一ストライキを闘う労働者階級のエネルギーと政治的高まりをこのスト権集約にも感ずることができる。 一九六〇年二月二十五日~三月十八日、「安保改訂阻止、生活と権利を守る国民大行進」が行われるが、和歌山市での 結団式には全県下十二の水系を行進した代表が結集する。教組は勤評反対と結合して各学校単位でこの行進に参加して闘っている。 二月、県母親大会実行委員会が共闘会議に参加し、三月八日の国際婦人デーに安保反対を掲げた初めての「婦人デモ」が組織された。五月二十日、安保改訂阻止・和歌山文化人会議が結成され、六月三日和大教授団が反対声明を出す。 和歌山勤労者音楽協議会(労音)の「民主主義を無視した岸内閣に対して、即時内閣総辞職と国会解散を要求します。」という声明に(六月二十日)対し、労音例会参加者の回答者は二〇八〇人、このうち声明に賛成一六七三人(八〇%)(反対四〇二人)が意志表明している。 県立盲学校では、予算要求街頭署名に生徒も教職員と共にたち、生徒と教師の話し合いで翌日から安保反対★★と結合して署名行動を前進させている。 六月十八日の和歌山市での共闘の決起集会(三〇〇〇人)には一〇〇名の高校生の隊列がみられる。 このような盛り上がりと職場の下部の力が結合し、六月段階に至って関西電力労組、全繊同盟ら全労会議も安保共闘に参加していく事となる。 【安保県共闘のその後】 一九六〇年八月、県民会議の恒常的体制確立によって★★をはかり全県代表者会議を開くが、住金、全逓の社会党に籍 を置く幹部の否定的態度・・・「安保廃棄まで闘うための共闘は必要ない」「恒常組織としての★★★は実行できない」 によってついに保留となり、単産加盟から県地評一括加盟へと後退した。(県民会議は結成時の県地評一括加盟から闘争 の前進の中で、各単組加盟となっていた。) 総選挙(一九六〇年十一月・第二九回)後、開店休業状態の共闘組織は「物価値上げ反対、失業と貧乏をなくす県民大★★は」や「国鉄運賃値上げ反対共闘会議」結成などの中で活動を再開。名称を「安保体制打破・和歌山県民会議」と改めた。有田・日高の共闘会議は活動再開の先頭をきり、★共闘とも自衛隊誘致反対闘争を基礎に組織をさらに強化・発展させていく。ともに「平和と民主主義を守る共闘会議」(平民生共闘」と改称する。 一九六一年二月から約一年間、日高平民生共闘と安保体制打破県民会議は美浜自衛隊基地建設のための煙樹が浜松切り 反対闘争を地元、農漁民と共に闘っていく。(語り継ぐ労働運動山田幹雄氏「煙樹が浜の松切り反対運動」)新安保条約締結、最初の全県的統一行動の展開である。 この時期、安保反対闘争とともに闘われ、独占資本のすさまじい「合理化」攻撃に直面した三池炭坑労働者の闘争は、安保共闘に結集する民主勢力の支援をうけて闘ったが、県地評は一九六〇年七月~十月下旬迄の間、のべ二〇〇名を現地へ動員し共闘している。また、この時期、安保反対と結合した生活擁護の闘争では県安保共闘結成数ヶ月後の一九五九年十二月一日~十八日、本宮を出発し、和歌山市に至る「平和と生活を守る県民大行進」(県地評と県関係★者共闘の★★)行進者冨永智文氏(和高教)(語り継ぐ労働運動)があり、また、安保闘争と結合した公務員労働者の賃金闘争(県地評連絡会ニュース・田淵史郎議長の「公務員共闘から『いのくら』へ」等の教訓がある。 全自運田辺運送支部は安保闘争の年、まさにその前夜の一九五九年の一月二日結成され、西牟婁地評に結集して安保闘争を闘いつつ階級的自覚を高め、一九六二年の春闘で労組は全自運の産業別統一闘争に参加していく。(語り継ぐ・・・ 所収、故井上仁平氏「トラックに立った勝利の★」) 一九六一年九月二十六日文部省は新安保にもとづく人づくり政策と独占資本の要求にこたえる全国一斉「学力テスト」を強行する。このとき和高教が拠点として闘った吉備高校での「学テ反対闘争」で、出動してきた武装警官数十名の★★ の中で、この反対闘争を最後まで支え共に闘った吉備町をはじめとする有田地域の安保共闘会議の闘いがあった事も忘れ てはなるまい。(語り継ぐ労働運動の歴史) 四、一九六〇年代 県下労働運動右傾化の危機 (1) 六〇年代における和歌山県下の労働運動は右傾化の危機に直面する。(大きく二つの側面から) 一つは六〇年安保以後、日米支配層によってなされたケネディライシャワー路線と呼ばれる、親米・反共の潮流の育成であり、安保を闘った統一の力の破壊である。二つ目は自民党県政と住友金属など県下独占資本による右傾化と分裂である。 勤評・安保を闘った和教組、和高教への弾圧と組織破壊、並びに七者共闘に結集した力の破壊。「会社派幹部・インフォーマル組織」の育成による労組の支配(住友の五月会など)労働者の政治革新のエネルギーをつぶし、革新統一を破壊するための工作=県地評からの住金・県職などの脱退などである。 その☆☆をあらかじめ五〇年代に☆ってみると全国的にはアメリカ占領軍と資本の結託による総評の育成と産別会議の破壊であるが、レッドパージ以後和歌山県内に現れたのは国政選挙における「社会党支持」である。 二・一ストを闘った主力和歌山県全官公共闘会議は一九五〇年六月の第二回参院選にあたってこの参院選に(全面講和か単独講和かをめぐって争われた)日本共産党から立候補していた全官公共闘会議の議長・茂野喬氏を排除して、社会党の永井順一郎氏推薦決定をした。(この会議=当時の二・一ストを闘った労組による選対会議には住友金属「扶桑金属」ら民商の代表も参加している) 戦後の労働運動における共産党の活動と労働組合組織化の貢献から、それまではどの労組でも共・社両党を革新の代表として迎えていたが、この時点から選挙戦における「社会党一党支持」がスタートする。これが結成後の県地評に持ち込まれる。 「県地評三〇年の歩み」には結成の年の九月二日「県地評幹事会、総選挙(十月)で支持政党は社会党左派と決定」とある。 たとえば勤評闘争について★★なまとめを行った一九五六年の(第七回大会)の「選挙闘争方針」を見ても「候補者推薦の手紙」として「労働組合もしくは階級政党の確認並びに誓約書を添付して文書で和歌山地評中央選対委員会へ提出しなければならない。」とした上、県地評の外局として「推薦★★と★★な連携のもとに日常業務を遂行するため」の「政治局」を設け、推薦議★はすべて政治局員としての任務を持つ」・・・などを方針化しており、「社会党支持」の上に政党の候補者自体が県地評の指導下に置かれる・・などの誤った方針を決定している。 このような県地評における「社会党支持」という、スタートにおける後退はやがて勤評闘争から安保闘争への共闘を通して克服され、「共・社両党支持」の時代を迎えていく。これが再びケネディ・ライシャワー路線に基づく★★★★のもとで、社会党の右傾化と結んで県地評の右傾化へつながり、一九六三年の第十三回大会で「社会党一党支持」へ逆戻りしていく事になる。 五〇年代からの右傾化の系統として、いま一つは★★の「民労協」の結成にみられる県民間産業労働組合協議会は一九五七年(六月)に結成されている。関電労組、全繊同盟らで結成される。 これは一九五四年「左翼労働組合主義との対決」を★じるとした反共・労使協調の全組織=「全労会議」(のち、 一九六二年同盟会議、六四年同盟)の結成に対応して県内で組織され、県同盟の潮流を形成(六五年)やがて、県地評からの住金、県職の脱退(六七年)によって作られた「県労懇」(六七年)とともに合流し、七二年「県労連」を形成。八〇年日米軍事同盟★★の社公合意と社会党の右転落とともに県地評内に「総評路線と★★」の旗を掲げる「平和労組会議」(社会党一党支持)が生まれ、やがて右の潮流と共に「連合」を形成していく事となる。
by kainanrekisi
| 2015-09-25 13:36
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